2021-08-25

男性の髪型の変遷を超俯瞰する

 ◇古代は、結い上げ、角髪、垂髪、蓬髪

古代の日本人男子の髪型については、弥生時代後期ごろの倭国を記述した『魏志倭人伝』に倭の男子の髪について書かれています。


それによると、髪は結んでいて、被り物はしていない、とあります。文献資料としてはこれが一番古い記録になります。(https://kamiyoroku.blogspot.com/2021/08/blog-post_19.html


文献以外にも国内で出土した土偶や埴輪からも、当時の日本人の髪型を推測することができます。髪を結んで頭頂部で束ねた土偶や埴輪があり、おそらく縄文時代後期には髪を結う風習があったようです。


『魏志倭人伝』は被り物はつけていないと記していましたが、6世紀前半ごろの倭人を描いた「梁職貢図」には頭部を布で巻いた倭人が描かれています。結った髪を布で巻いて固定したようです。(https://kamiyoroku.blogspot.com/2021/03/blog-post.html


4、5世紀ごろとされる埴輪には角髪(みづら)姿が多くあります。戦士は頭部に兜のような帽子を被っています。埴輪の角髪をみると、左右に分けた前頭部と後頭部の三つのセクションで構成されています。左右は角髪に結い、後頭部は垂髪になっています。角髪も結い方によって身分の違いを表していたという説もありますが、確かなことはわかりません。


太古から古墳時代ごろまでは、結い上げ、角髪、そして庶民は手間のかからない垂髪を後ろで束ねるか、もっと簡便な蓬髪にしていたのではないかと思います。


冠、烏帽子と立髻の時代


隋、唐との交流がはじまると、冠、烏帽子が日本に入ってきます。冠の下は立髻(たてもとどり)です。紐で何重にも毛束を巻いてしっかりした髻をつくります。立髻は冠や烏帽子の中におさめ、被り物を固定する役目もあります。当時の装束を含め、大陸伝来の風俗です。


冠、烏帽子は貴族階級がしていましたが、徐々に庶民にまで広く普及します。

冠、烏帽子については、当時の風俗を描いた絵巻物などの絵画資料で知ることができます。平安時代中ごろになると、庶民も昼も夜も装着するのが習わしになり、冠、烏帽子は男性の生活になくてはならないアイテムになります。


昼夜を問わず装着していた烏帽子ですが、鎌倉時代後期から南北朝の時代になると夜は装着しない人が徐々に増えていきます。やがて戦国時代になると、戦で兜を被るため烏帽子の風習は徐々に廃れ、また兜が装着しやすく、頭部が蒸れるのを防ぐために月代の風習が広がります。


立髻も巻き固めた頑丈なものから、月代で頭髪が減ったこともあり細身の髻になります。髻も直上から後ろ斜めへと角度をつけるように変わります。庶民は数回元結を巻いた程度の茶筅髷が多く見られます。柔烏帽子を被る庶民の間ではこの茶筅髷は鎌倉時代後期には見られる髪型で、しかも江戸時代も広く結われています。


丁髷の時代


戦国時代末期になると、髻を折りまげる丁髷が結われるようになります。総髪でタボを厚くとり、髷の位置も後頭部の中ほどの低い位置にとる髪型や、月代を大きくした大月代も見られるようになります。大月代は江戸時代になるとかぶき者に引き継がれ、18世紀後期ごろまで続きます。


烏帽子装着の風習は日常生活ではなくなり、烏帽子を装着するのは武士が儀典のときに折烏帽子をつけるていどです。江戸時代になると徳川家の援助で朝廷風俗が復活し宮廷では冠なども復活します。江戸期の朝廷風俗は平安王朝とは違う様式で江戸様式といわれています。さらに朝廷風俗は大正期にも改められ、現在に続いています。


江戸時代の髪型は月代、丁髷に代表されます。立髻・冠は大陸伝来でしたが、月代・丁髷は日本独自の髪型文化といえます。

宝暦から天明期に辰松風や文金風、さらに各種の本田髷といった特徴ある髷が出現しましたが、文化文政のころには、いまの時代劇でみられる髷姿に落ち着きます。町人や商人はタボが厚く、武家はタボを引き詰め薄くした髷姿が多かったといいます。


江戸後期、幕末には、講武所風や総髪がみられるようになります。総髪は江戸時代を通じてありましたが、幕末は月代を剃る時間のない武士が多く、総髪が広まったといいます。武士に総髪は礼法外とされていましたが、急を告げる幕末は許される髪型となりました。


また江戸時代は、身分社会で、身分や職業によって、独自の髪型をしていました。医者や学者は総髪なでつけが多く、また非人は髷を結うことが許されず蓬髪でした。


ザンギリ、洋髪の時代


明治4年に断髪令が出されます。明治政府の指導もあり徐々にザンギリ頭へと変わっていきます。明治20年ごろには髷を結う人はいなくなったといいます。風俗は一朝一夕にはかわりません。政府が懸命にすすめた断髪も15、6年かかってやっと成し遂げられました。


ザンギリ頭、洋髪へと変わった日本人の髪型ですが、直毛で硬毛の日本人にあった起毛状態の髪型も流行ります。スコヤとか職人刈とか、時代と髪型の特徴によって名称はいろいろですが、要は起毛です。いまの角刈り、ブロースです。


明治後期になると、バリカンが理髪店で使われるようになり、さらに軍でも兵隊の髪をバリカンで刈るようになると、バリカンは一般家庭でも使われるようになります。庶民がバリカンでできるのは丸坊主です。丸坊主は戦後にかけて、男性の定番髪型の一つになりました。いまでもスポーツ少年で丸坊主にしている少年を見かけます。


戦後、化学工業が進歩し各種の整髪料が開発販売されると男性の髪型も変化します。戦前までは整髪料といえばチックとポマードでしたが戦後はリキッドタイプやクリーム、スプレー、ムースなどそれぞれ特徴のある整髪料が登場し、男性の髪型の幅が広がりました。昭和40年以降はそれまではなかったロングヘアをする男性が増え、男性の髪型は多様化の時代を迎えます。


パーマネントやヘアカラーの技術も髪型の多様化を促しました。パーマネントとヘアカラーは戦前からありましたが、より高品質な製品が開発され、普及したのは戦後です。男性の場合、アイロンを使ったデザインパーマ(パンチパーマ)や、毛を折るアイパーなども一時はやりましたが、いまではロッドを使うパーマネントが普及しています。


日本人の身体的な特徴の一つは直毛と黒髪です。この特徴をいかした髪型が戦前までは行われていました。直毛と黒髪は日本人の特徴であると同時に、髪型を限定する要因でした。これを打ち破ったのがパーマネントとヘアカラーです。

パーマネントとヘアカラーの普及したことで、男性の髪型はいっそう多様化しました。また、昭和の時代までは、男女による髪型は分かれていましたが、近年では性差を感じさせない髪型も広く行われるようになりました。


多様化した髪型は、令和のいまに続いています。


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