2021-09-10

聖徳太子(厩戸皇子)の髪型

 弥生時代から古墳時代にかけての歴史は史料が多くありません。文献資料は『古事記』と『日本書紀』、中国の『魏志』、『宋書』に倭人について記述があるくらいです。

造形史料として、埴輪、土偶がありますが、抽象的でおおよそのイメージがわかる程度です。


この時代の髪型についても確かな史料は少ない。『魏志倭人伝』に一行あるだけです(魏志倭人伝にみる倭人の髪型  https://kamiyoroku.blogspot.com/2021/08/blog-post_19.html



数少ない史料のなかに、聖徳太子の髪型に触れた一文が『日本書紀』にあります。いまは聖徳太子より厩戸皇子(うまやどのおうじ、574~622)と呼ぶのが正しいらしい。


物部守屋を襲撃する蘇我馬子の軍に加わった厩戸皇子が

…ひさごはなの髪にして、白膠木(ぬるで)を切って四天王の像をつくり、頂髪に置いて戦勝を祈願した…

という内容です。


「ひさごはな」は、「束髪於額」という漢字を当てます。おもに子供がした角髪(みずら)で、左右のもみ上げ部に8の字に結びます。襲撃したのは587年のことで、厩戸皇子は13歳です。まだ子供扱いだったようで、軍の後尾にいたそうです。厩戸皇子は四天王の像をつくって頭頂に置いて戦勝を祈願したことになっています。


「頭頂に置いて」とあり、四天王の一人の像を毛束に巻き込んで固定した可能性もありますが、頭頂に掲げ持って崇めたのだろうと解釈するのが無難なところです。


四天王は、東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天の四方で仏法僧を守るといわれています。

蘇我馬子が物部守屋を襲撃した背景には、仏教を信奉する曽我氏と仏教に批判的な物部氏の対立があるといわれ、仏教を擁護する厩戸皇子は曽我氏に協力しました。四天王の像は仏教を擁護する曽我の軍勢を守護する狙いもあったようで、厩戸皇子は敵に勝ったなら四天王のために寺を建立します、と誓ったといわれています。戦勝した厩戸皇子は四天王寺を曽我氏は飛鳥寺を建立しました。


日本書紀は、この事件が起きてから約150年後に書かれたもので、脚色されていると考えるのが普通です。

蘇我馬子が物部守屋を殺害して、その後、四天王寺と飛鳥寺を建てたのは事実ですが、戦勝祈願のくだりは、色濃く脚色されていると思われます。


厩戸皇子(聖徳太子)というと、1万円札で使われた「聖徳太子二王子像」でその容姿が知られています。しかし、この画像も8世紀の中ごろ描かれたもので、平安の時代から、そもそもここに描かれた人物が厩戸皇子なのかの疑問視されています。


「聖徳太子二王子像」は、中央に笏(しゃく)を持った厩戸皇子、左に弟の殖栗皇子、右に長男の山背大兄王を描いたとされます。左右は子供がする髪で描かれています。成人した厩戸皇子の髪は唐輪が結われ、タボもあるようです。頭頂部も結ってあるようですが、被り物かもしれません。この絵からは正確には判断できません。

ひと目、大陸風の髪型の印象を抱くのは、唐輪髷があるからでしょう。


日本男子の髪型は、大化改新の以降はある程度わかりますが、それ以前は史料が少なく、よくわからないのが実際のところです。

この「聖徳太子二王子像」に描かれた絵が当時の髪型の状況を的確に描いているのなら、飛鳥時代の男子(貴族)は唐輪をしていたことになりますが、とても断定できません。もしそうなら、古墳時代は角髪、飛鳥時代は唐輪、大化改新以降は立髻(冠、烏帽子)ということになりそうです。


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