『魏志倭人伝』に弥生時代後期ころの倭人の髪風俗について記述された個所があります。
それによると、男子はみな結った髪を留め、婦人は髪を結んで束ねていると書かれています。また、男子は頭の被り物はつけずに露呈していることも記述されています。
この一文から当時の倭人の髪型の一端を思い描くことができます。
男子は、総髪の長い髪をまとめ束ねて結い上げ、おそらく棒状のもので留めていたのではなかと想像できます。棒状の道具は、後の笄と同じ役目をします。これ一本あれば髪を留め置くことができます。
江戸時代に笄は装飾性が高まり、櫛や簪同様、髪飾りとして利用されていますが、本来は髪留めの道具で、これは倭人伝以前の縄文時代から使われていたのではないかと推測されます。
縄文時代の貝塚から、食べた動植物の残滓が出土しますが、この中に鶴など大型の鳥類の足の骨も出土しているといいます。食べたかすかもしれませんが、出土した骨の破損状態などを調べれば、笄として利用されたのかわかると思います。
髪留めは棒切れ一つで足ります。直毛の長い髪を収めるには便利な道具で、古代から使われていたのではないかと推測できます。
婦人の髪は結んで束ねていると書かれていますが、束ねた髪を輪にして結んでいた可能性が高そうです。江戸時代の輪髷に近い。
平安王朝時代の垂髪は、日々の活動に不便なので、女官は長い髪を後頭部で結んで輪状にしていました。『魏志倭人伝』に書かれた婦人の髪は、江戸時代の輪髷、明治期のじれった結びに近いかもしれません。
以上、『魏志倭人伝』から髪に関わる部分を推測をまじえて紹介しましたが、そもそもこの『魏志倭人伝』の信頼性については疑問があります。
倭人の髪風俗を紹介した文章の数段後に、小人国の記述があり、「人の背丈は三、四尺(72㎝~96㎝)です」と書いています。さらに裸国と黒歯国があり、女王国の東南に船で一年行くと着きます、とあります。
こうなると、この書そのものに対する信頼性は怪しい。
『魏志倭人伝』は西晋の陳寿(297年没)が書いたとされていますが、陳寿が倭国に来たわけではありません。誰かに聞いて書いたのです。その誰かも実際に倭国に来て、その目で確かめた見聞を伝えているとはとても思えません。伝聞の伝聞、さらに想像や空想が少なからず紛れ込んでいる、と考えるのが妥当です。
当時の状況としてはやむをえないのかもしれませんが、後世の私たちが信ずるに足る書物とは言えません。
『魏志倭人伝』抄(髪や風俗などの部分)
https://ribiyo-news.jp/pdf/wajinden.pdf
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