2020-12-13

明治天皇の断髪は明治6年3月20日

 明治維新を機に、日本のファッションの洋風化がすすみました。男子の洋風化は足元からはじまり、頭は最後に丁髷頭からザンギリ頭へと変わったといわれています。いまに残る坂本龍馬の写真をみても、わかります。


断髪令が出されたのは明治4年のことです。反応はいま一つだったようで、政府は新聞などを使って断髪を促す宣伝を展開しましたが、期待したほどの効果はありませんでした。


明治20年ごろにはほぼすべての男子がザンギリの西洋髪になりましたが、多くの国民が髷を切るきっかけとなったのが明治天皇の断髪です。

明治天皇が断髪したのは明治6年3月20日といわれています(諸説あり)。この月の初めには皇后が古来からの風習である、黛と鉄漿を止めています。剃り落とした眉の上に丸く黛をし、お歯黒にする風習です。もともと宮廷風俗でしたが、江戸時代は結婚した女性もしていました。また宮廷男子もしていました。


明治天皇は、服に関してはすでに洋装をする機会が多くありましたが、頭は髷は結ったままでした。帽子を被り、帽子のなかに髷を納めていました。宮廷装束の衣装で冠をつけるときは、冠下の髻をとっていたと思われますが、洋装では髻を高くとることなく髷をまげておさめていたと考えるのが普通です。



一足さきに日本古来の風習を止めた皇后に刺激されたのか、髷を落とし散髪(宮廷の文書では散髪を使っています)しました。

この日、天皇はいつものように、おつきの女官に髷を結わせ、淡く白粉をさし、学問所に出かけたのですが、戻ってきたときには髷がなくなっていました。送り出したときと違う、散髪姿の天皇を見た女官たちは肝をつぶすほど驚いたそうです。(『明治天皇紀』)。

誰が天皇の散髪をしたのかは、後の侍従の話とか、有力と思われる説が複数あるので不明としておきます。しかし五位以上の宮廷貴人か、信頼のおける人で、なおかつ西洋理髪の心得のある人であることは間違いありません。


天皇はじめ宮中などの洋装化に関しては、明治4年8月「服制更革の内勅」、明治5年11月の「大礼服通常礼服の制定」などが知られますが、明治2、3年ごろには実際に洋服を着ていました。兵士操練指揮に際し「練兵号令御稽古用御服」(『御服目録』)を着たとされています。


『吉井友實日記』明治5年4月7日に「洋服の誂えの一件について、横浜より洋服裁縫師外国人の宮内省に至れるを召し,内密に聖体を度らしめたまふ」とあります。横浜居留地のドイツ人テーラー、ブラントが採寸して服を仕立てたといいます。後年、神格化され聖体に触れることはないと信じられていましたが、もちろん偽情報です。


天皇は明治2年ごろから洋服(主に軍服)を着用することがありましたが、明治6年3月までは頭は髷をのこしたままで軍帽におさめていたのが伺えます。


明治天皇は慶応4年に即位の礼を行いますが、その際の侍従の担当が記録に残されています。

「権大納言正親町実徳を伝奏に、蔵人頭右大弁万里小路博房を奉行に補す。尋で、摂政二条斉敬「前左大臣」に加冠を、左大臣近衛忠房に理髪を、蔵人頭左中弁甘露寺勝長に能冠を命ず。」(『維新史料綱要』)。髪を担当したのは左大臣近衛忠房だったのがわかります。また理髪という言葉は宮中では古くから使われたようです。


幕末に来日した英国の外交官、ミットフォードの『英国外交官のみた幕末維新』(講談社学術文庫)には、践祚して間もないころの明治天皇に謁見したときの模様がかなり克明に描かれています。当時少年だった明治天皇は、黛と鉄漿に紅をさした宮廷風俗で臨席しましたが、その姿は神々しかったと好意的に描いています。


写真は、散髪して間もない明治6年10月撮影とされた写真です。着用した服の詳細は判明していて、令和のいまAIによってカラー化された写真が出回っています。(『天皇四代の肖像』毎日新聞社)

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