2021-03-12

「梁職貢図」の倭人の髪型は?

 「梁職貢図」という中国の絵画資料に、6世紀前半ごろの倭の国からの使節が描かれています。残念ながら頭を布で巻いているので髪型は不明ですが、古墳時代後期の倭人の風俗の一端を知ることができます。


「梁職貢図」は、のちに梁の元帝が王子の時代に、梁と朝貢関係のあった三十五か国の使節をみずから描いた、といわれています。原画は現存していませんが、模写した絵画資料が伝わっています。残っている使節は13か国のみで、他の国のものはありません。


図は、倭の使節です。

頭に布を巻き、首にも何か巻いています。あごひげをたくわえているのがわかります。上衣は腹部で結び、腰に布を巻いていますが、前で結んでいるか着込めているのでしょうか。手足は手甲脚絆のように布を巻いています。そして裸足です。


百済の使節の絵も残されていて、百済の使節に比べると見劣りします。百済の使節はクツを履き、袴ズボンに襟付きの服を羽織ってます。色彩も豊かです。

倭の使節は未開の国からやってきたように見えます。


6世紀前半といえば日本は古墳時代です。中国大陸は南北朝のころで、南朝北朝でいくつか国が興亡しました。南朝の梁のころは継体天皇の時代です。それより前の「倭の五王」の時代にも大陸に使節を送ったといわれていて、遣隋使以前から大陸と交流していました。


当時の倭の風俗は知るには、埴輪が有力です。人物埴輪には、角髪をした男性や砲弾状の兜をかぶった戦士らが出土しています。王家や有力者らは当時、角髪を結っていたのが埴輪からわかります。角髪にも結い方はいろいろあったのが、埴輪から知ることができます。やや下げて角髪を結った「下げ角髪」は一説には高貴な人がした、といわれています。


また女性も髪を結っている埴輪があるので、結っていた人はいました。女性にしろ男性にしろ埴輪に残されている人物は有力者です。有力でない普通の人は、より単純な髪型をしていた可能性が高いのは想像できます。


ところで「梁職貢図」に描かれた倭人ですが、朝貢に派遣される人物ですから有力者なはずです。ですが角髪ではありません。頭は布で巻かれているので詳細は不明ですが、おそらく髪を束ねて結び、布の中に収めていたと思われます。

梁の国では角髪の風習はないので、倭の使節は角髪を解いて他の国の使節と同じように頭部を布いて朝貢に臨んだのかもしれません。


古墳時代というと角髪のイメージが強いのですが、実際は伸ばしたままのほう髪や頭頂部で簡単に結って笄でとめただけの単純な髪にしていたのではないでしょうか。労働にいそしむ庶民は、動きやすく、しかも手間のかからない単純な髪で働いていたはずです。


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