令和の現在、理美容サロン業界の流通はインターネットが主流になりつつあります。しかし、ひと昔前まではディーラーの営業担当者が一軒一軒の理美容室に出向き、注文を受けて回るのが一般的でした。こうした光景はいまでも一部に残っていますが、徐々に過去のものとなりつつあります。
実はこの「注文伺い」の商習慣は、髪結の時代である江戸時代から存在していました。その様子は、式亭三馬の滑稽本『浮世床』にも描かれています。
たとえば「江戸の髪結床と剃刀研ぎの関係」(https://kamiyoroku.blogspot.com/2025/06/blog-post_19.html)で登場した丁稚が、鬢五郎の髪結床を退出したあと、入れ替わりに風呂敷包みを背負った若衆が現れます。彼の名前は「櫛吉(くしきち)」といい、名前のとおり櫛を扱う商人です。
式亭三馬は登場人物に特徴的でわかりやすい名前をつけることが多く、たとえば食鳥肉を扱う商人には「しゃぼ八」と名づけています。
櫛吉は「鬢さん、透きはよしか」(原文のまま)と、梳き櫛の注文伺いに訪れますが、鬢五郎は「さっき櫛八が来たけど断った」と答え、梳き櫛は間に合っていると伝えます。続けて、「間歯(あいば)はあるか」と尋ねます。
櫛吉と櫛八、同じ櫛を扱う同業者が設定されており、鬢五郎の髪結床には複数の業者が頻繁に訪れている様子がうかがえます。櫛に限らず、剃刀や砥石などの道具、元結や鬢付け油といった消耗品を扱う業者もいたことでしょう。
ここで鬢五郎が尋ねた「間歯」とは、「合歯(あいば)」のことで、目の細かい櫛を指します。梳き櫛も細かい目ですが、間歯はそれより高級品とされています。櫛吉が風呂敷から取り出した間歯を見て、鬢五郎は「こんな櫛は使われねえ」とケチをつけつつも、「いくらだ、150か」と買う気も見せます。値切るためにわざと難癖をつけているようにも見えます。
櫛吉は「200だ」と返します。値段の単位は「文」です。櫛吉は200文でも50文安い売値であると主張しますが、鬢五郎は「250の間歯には見えねえ」と反論します。こうして値段交渉は続いていきます。
『浮世床』では、櫛商人と髪結床のあいだで繰り広げられる値段交渉が描かれますが、実際の現場では髪結業界特有の数字の符丁が使われていた可能性もあります。ただし、符丁は地域や業種によって異なるため、読者にわかりやすく伝えるために単純な数字表現にしているとも考えられます。
交渉の末、櫛吉は「おまへはほんとう。こっちは嘘よ」と言い残し、荷を仕舞って背負い、帰っていきます。結局、値段交渉は不調に終わったのでしょうか──髪結と出入り商人の人情と駆け引きが垣間見える一幕です。
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