明治18年(1885)に婦人束髪会を設立した渡邊鼎さんは、「渡邊」と表記されていますが、正しくは「渡部」らしい。「渡部」と書いてワタナベと読ませます。
渡邊鼎さんは、明治18年に婦人束髪会を設立したあと、渡米して外科の勉強をしサンフランシスコで開業します。その後、厳父の死去にともない帰国し会津若松市に會陽医院を開業。そこに治療に訪れたのが野口清作、後の野口英世さんです。大火傷して不自由だった左手を明治25年に手術し、どうにか動くまでに快復しました。この手術に感激した野口英世さんは医者を志し、會陽医院に書生として3年半住み込みます。
これを記念して会津若松市に野口英世通りがあり、その一角にある珈琲店の2階に「野口英世青春館」に渡邊鼎さんを紹介しているパネルがあり、それには「渡部」で統一されています。
婦人束髪会の活動を通じて、女性の地位向上を目指した渡邊鼎さんは、黄熱病研究で世界に貢献した野口英世さんの「生みの親」といえる存在でした。
写真は、「野口英世青春館」に掲出されたパネル。渡邊ではなく「渡部」と表記されている。
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