2021-04-13

モガの流行は昭和10年以降

 「洋装・断髪姿のモボモガが銀座の街を闊歩した」と、大正時代末の銀座を描写をした文章を見かけることがありますが、実際のところはどうなのでしょう?



モボモガは確かにそのころ登場して雑誌などに取り上げられています。相当目新しかったスタイルのようで、物珍しがり屋のメディアがとびついて、頻繁に紹介しています。当時の雑誌や新聞のみると、冒頭の表現が正しいようにも思えます。


大正12年、資生堂が銀座の化粧品部を改装して2階に美髪部、いまの美容室を設け、先端の技術を持つ米国人美容師のヘレン・グロスマン女史を主任として招聘しています。

その折に、銀座の店の前を歩く女性の髪を観察しました。1時間ほどの観察時間でしたが、5百人を超える女性が通行し、束髪は約3割、丸髷・櫛巻き・銀杏返しは各約1割、耳隠し・桃割れは数%、その他の髪型、洋髪、不明は数人、モガのトレードマークであるボブは1名だった、といいます。


大正15年(昭和元年)には社会学者の今和次郎さんが、銀座で女性の髪型を観察しています。そのときは、和風、洋風、中間の束髪に分けて816人を観察しています。和風は31%、洋風42%、束髪27%となっています。洋風に分類された髪型には耳隠しや髷なし(行方知れず)、夜会髷なども含まれています。7:3分け、オールバックに限れば29%です。断髪は0でした。今さんは束髪を和洋の中間としていますが、この時期、和洋折衷的な束髪、庇髪などの髪型が増えています。


さらに、当時「場末」(と、今さんは表現しています)だった淀橋(いまの西新宿)でも女性の髪型を年代別に観察し、ここでは年代ごとの特徴を把握していますが、断髪はいません。図が示されていて、わかりにくいのですが、高齢者は達磨返しのような絵もありますが、他の年代の多くは束髪ばかりのように見えます。


大正末から昭和初期にかけては、モボモガが多くいて銀座の街を闊歩していたわけではありません。物珍しさから注目されただけです。

断髪のボブスタイルが目立つようになるのは昭和10年以降です。戦時色が強まり、行動しやすい洋装化が進むのと合わせて断髪、ボブが増えていきます。さらに、髪の手入れがしやすい電髪が広く行われるようになって、若い女性、とくに東京など都会の女性に支持されるようになってからです。


国民総動員の大戦は、戦場に行った男性に代わって女性が生産活動などの労働に従事したことから、行動様式、風俗を変化させるトリガーになったようです。日本の女性が洋装化するのは戦後になってからですが、すでに戦時体制下にはその兆しが見えていました。


*写真は、昭和初期のモガ。昭和3年ごろか? 場所は銀座といわれています。後方の男性たちは好奇な目で3人の女性を見ています。極めて珍しい存在だったのがうかがえます。


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