髪結職の組合仲間については、これまでにも紹介しましたが、独占営業権を守るために、隠れてこっそりと髪結をしている忍髪結を摘発することも大事な役目でした。
江戸の町奉行の役人は、18世紀後半ころのことで、南北町奉行合わせて300人弱しかいません。与力25騎、同心120人が南北の町奉行に配属され月番制で、いまでいう都の行政全般、裁判、警察、消防などの仕事を担っていました。役人の人数は時代で多少は変動しますが大きくは変わりません。
江戸の人口は約100万人、そのうち町人地の人口は50万人ほどです。いまの都庁や消防、警察の職員数に換算すると、格段に少ない。この人数で江戸の町を治めるのは無理な話です。そこで町内自治を組織して、江戸の町を統治していきました。江戸の場合は町年寄り、町名主、家守などで地域を治めるとともに、職業による統治も併せて行っています。
車善七を親方とする非人の身分集団は、江戸の町にいる無宿の野非人の狩りこみを行うのも仕事の一つでした。幕府から公許された吉原の遊郭主は、岡場所以外で客を引いている夜鷹らを取り締まるのも役目でした。摘発された夜鷹のなかには、そのまま吉原の遊女にすることもでき、遊郭主にとっては、前金を払わずに働かすことができたといいますから、ありがたい話です。
髪結職の組合仲間も、触書がいうところの忍髪結を摘発して自らの仕事の独占を守りました。なにしろ、髪結稼業は鬢盥一つを持って簡単にどこででもできる仕事です。出床、内床ではこっそりとはできないにしろ、辻に客が座れる石や樽などがあれば仕事ができます。
安政6年(1777)に髪結床に出荷駆付け役が命じられた14年後の寛政3年(1791)に髪結の組合仲間は忍髪結の取締りを願い出ています。その2年後、寛政5年に忍髪結禁止の触れがだされ、以降髪結の組合仲間が中心となって忍髪結の摘発にあたったものと思われます。
どれほどの成果があったのかは不明です。たとえ摘発して追い払ってもすぐに別の辻場で髪結の仕事をしていたかもしれません。
また辻床以外に、懇意にしている得意先を回る、回り髪結もいました。いまでいう出張理美容です。人目を避けて得意先に出向けばわかりにくい。回り髪結を摘発するのは難しかった可能性が高そうです。
髪結の仕事は、腕さえあれば簡単にできる仕事です。いつの時代も髪結のなり手は多く、、供給過剰がついてまわる仕事なのです。
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