2021-06-07

髪結床に籍を置いていた女髪結

 むかしの理容は男性の仕事と書きましたが、例外もあります。

江戸時代後期、髪結の女房が月代剃りを禁止する触れや、女性に下剃りをさせるのを禁止する触れが出されています。

髪結床は三人立ちといって、小僧、中床、親方の三人で仕事をすることが多かったといわれています。小僧は下働き、中床は月代剃り、親方が髷結いという作業を分担して行っていましたが、なかには小僧や中床にかわって女房に仕事をさせた髪結床があって、このような振れが出されたのでしょう。おそらく親方の人柄が悪くて弟子がいつかないか、売り上げが少なく、小僧や中床を雇えない、といった理由があったのではないかと想像します。


そこで女房の登場となったのはいいのですが、何らかの問題があったようです。月代剃りで頭部を切るなどなどの事故が多くあったのかとも思いましたが、禁制とされていた女髪結との関係がありそうです。


前述の髪結女房への触れは寛政の改革が行われているとき、女性の下剃りの触れは天保の改革が行われているときにだされました。両改革では、女髪結が取り締まりの対象になっています。


女髪結は江戸中期に職業として登場しますが、当初は遊女相手に豪奢な髪を結っていました。女性の髪は本来、自分で結うのが習わしでしたが、寛政ごろには一部の富裕でおしゃれをしたい女性の髪を結うようになっていました。

それが奢侈を禁止するお上から禁止されたのです。


女髪結は年季明けの手先の器用な元遊女が多く、そのまま遊女屋で専属的に遊女の髪を結うことも多くありましたし、数件の得意先の遊女屋を回って遊女の髪を結う女髪結もいました。

ところが寛政のころには、髪を結ってもらいたい富裕層の女性が増えましたが、女髪結は幕府のご禁制です。看板を出して仕事をすることはできません。


そこで、町の髪結床を手伝うという名目で在籍して髪結床を拠点にして、一般の女性からの声のかかるのを待っていた。もしくは手広く仕事をしている髪結床は出張して行う回り髪結の得意先を持っていて、そこに一緒に出向いて、大店の奥方や娘などの髪を結っていた、、、。そこで幕府は、髪結床に下剃り名目の女をおいてはいけない、と触れを出した。「たぶん、こうだったんじゃないか劇場」的な発想ですが、可能性はありそうです。


明治になって、髪結床から西洋理髪店(当初は、髪剪店などの名称が多い)に変わるととももに、女髪結は公許され、理髪店は男性理髪師の職場になります。しかし明治の30年代後半には女理髪師が現れます。珍しい存在だったのは確かなようで、当時の新聞記事に「女床屋開店」などの見出しが見られます。明治後期には、女性が理髪業に進出しましたが、新聞記事になるくらい稀有な存在だったのは確かなようです。


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