江戸時代、髪結は組合仲間をつくり、公役を担いました。
江戸で頻発した火災時などの非常時に奉行所や町年寄りの役宅など諸役所の資料や書物などを持ち出す駆け付け役や、牢屋に収監された囚人の月代剃りなどです。橋詰広小路の出床は、洪水時に橋を点検する橋番をしました。
公役を担うことで、鑑札代が免除されたといいます。江戸の髪結鑑札は寛永17年(1640)からはじまります。町奉行から鑑札を受けた髪結が江戸の町で稼業ができます。髪結鑑札は、親方は年2両、弟子は年1両といわれています。
公役を担うことで、髪結鑑札は駆付鑑札とも呼ばれるようになります。
髪結の組合仲間は、享保の改革ではじめて公儀に認められます。享保の改革では髪結に限らずいろいろな業種の組合仲間が認められますが、髪結は熱心に町奉行に働きかけました。この時に奉行に出したのが「一銭職由来書」です。内容は髪結職を讃え、いかに神君・家康公に貢献したかを並べ立てますが、よくできた創作です。
囚人の月代剃りなど、ありがたくない公役を担ってまで、なぜ髪結は組合仲間の結成を願ったのでしょうか? それは、髪結仕事の独占です。組合仲間に入っている髪結だけが江戸の町で髪結稼業できるようにしたかったからです。
髪結の仕事は、腕一つでできる仕事です。棒手売りや飲食の屋台などは仕入れが必要ですが、髪結は鬢盥に必要な道具を収納して、どこででもできます。かかるのは元結ぐらいです。しかも一人でもできます。大工のように集団作業はありません。
腕が良ければ実入りも大きい、割のいいの仕事で、腕に覚えのある人なら誰でもできます。髪結を仕事にしたい人は大勢いました。髪結がどんどん増えれば客の取り合いになります。髪結の仕事は、いい仕事だけに過当競争になりやすいい。髪結仕事はいつの時代も過当競争がついてまわるのです。
そんな過当競争、客の取り合い、髪結賃の値下がりを防ぐためには、新規の業者を締め出すことです。そのための組合仲間です。組合は営業独占権を得るための組織であり、既存の髪結の生活を守るための仕組みでした。
江戸では万治元年(1658)に髪結床は一町一株制になっていて勝手に髪結床を開くことはできません。しかし、鬢盥一つで仕事ができる髪結です。道端で髪結をする辻床や得意先に出入りする回り髪結が横行していました。鑑札なしで稼業する彼らを取り締まったのが髪結組合でした。江戸時代後期には、彼らを忍髪結と称し、忍髪結取締りの町触れがだされています。
では新たに髪結床を開くにはどうしたのでしょうか?
新たに独立するには、その地の組合に入っている親方の承認が必要でした。所属するすべての親方の承認が必要なところが大半だったようです。
具体的には、髪結床組合に加入している親方の髪結床に弟子入りして、修行を積んで腕が組合仲間から認められてはじめて独立することができます。
一町一株が原則でしたが、株で売買が取引されたのは全町の半数以下で、新規に開設する空きはありましたし、加齢などの理由で親方を引退する髪結床もありました。
髪結組合はその土地での営業独占権することで、子弟を受け入れやすくなりました。組合には営業独占権と弟子の確保という二つのメリットがあったのです。子弟教育といっても徒弟制度です。
徒弟制度による教育は、髪結に限らずひろく行われていて、食事と衣服、住居の衣食住は親方が面倒を見ましたが、ほぼ無給です。一人前になるまえに辞めたときは、そのときまでにかかった食い扶持を親がまとめて払うのが習わしでした。
髪結組合は天保の改革で他の組合と同様、解散させられます。内床、出床、回り髪結、辻床が急増したのはいうまでもありません。そして当然、髪結賃も値下がりしました。
明治になると、髪結は西洋理髪へと業態転換しますが、初期は髪結、明治後公許された女髪結に西洋理髪、さらに明治後期には洋髪を扱う美容、それぞれの業種の同業者組合(寄合)が各地に組織され、所管する警察署や警視庁に営業独占権、協定料金などを求めて活動することになりますが、明治期についてはまた別稿で。
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