2025-07-05

「腕より愛嬌」江戸の髪結文化|『浮世床』鬢五郎ばなし

 『浮世床』には、髪結の仕事について鬢五郎が語る場面があります。

弟子の留吉が外出している際、客人との会話で留吉の話題が出たあと、「髪結も辛い職だのう」と話を振られた鬢五郎が、その大変さを語りはじめます。

「辛いどころか、習いはじめたころは腰が痛くて、からっきし伸びねぇぜ。剃刀を持った手が棒のようになって、櫛に持ち替えるときに手こずるはナ。日がな一日、腰を折って俯いてばかりいるから、のぼせて目がくらむはナ」(※原文に近い形で引用、以下同)


これは、留吉のような見習い時代の苦労を語っているようです。

床に腰掛けた客の後ろに立ち、月代や髭を剃るには腰を屈めた姿勢が必要で、その無理な体勢が腰に大きな負担となります。

剃刀作業のあと、梳き櫛に持ち替える際にも苦労し、顔を上げると目まいがする――そのような経験談を語っています。鬢五郎は「習うより慣れだ」と締めくくります。


続いて、客人は髪結の仕事において、夏と冬のどちらがやりやすいか尋ねます。

鬢五郎は「どっちとも言えねぇ」と答えます。「夏は汗がたまって出るし、冬は手がかじかむ。夏の夜なべ仕事は蚊がうるさい。掻きたくても油手だから思うように掻けねぇ」と説明します。


話題は髪結稼業全体に移ります。

鬢五郎は「髪結というものは、場所をしようが、床を預かろうが、人の機嫌、気遣いをとらなきゃならねぇ」と言い、辻で営業する出床、得意先を回る回り床、あるいは髪結床での営業でも、客への気配りが欠かせないと語ります。


「客のなかには気難しい人もいる。十人いれば十色、それぞれに話を合わせなきゃならねぇ」と続け、「つまるところ、髪結は女郎と同じよ」と自嘲気味に言い放ちます。さらに、「自分の意見を持たず、客に合わせる『内股膏薬』がいいのよ」と述べます。


客人も、「腕がよくても仏頂面の髪結には行かねぇ」「世事に通じている髪結がいい」「愛嬌がなければだめだ」などと語り、要は「腕より愛嬌だ」と髪結の本質を評価します。これは、作者・式亭三馬の意図が強く反映された台詞でしょう。


さらに、「どんな名人でも歳をとれば駄目になる」と問われた鬢五郎は、「髪結は五十を越えちゃいけねぇ」と答えます。当時の50歳は、現代で言えば65歳から70歳に相当するかもしれません。


話は、髪結が代わることの難しさに及びます。

鬢五郎は「髪結が代わると勝手が違う。俺も代わりには結わせねぇ」と語ります。

客人も「せっかく馴染んだ髪結が、鬢盥無尽で別の町に行ってしまう」と嘆きます。


鬢五郎自身も自分の髷は結えません。懇意にしている髪結に頼んでいるのでしょう。

やがて弟子の留吉が腕を上げれば、彼に任せる日が来るかもしれません。


「鬢盥無尽(びんだらいむじん)」の意味は明確ではありませんが、髪結職人が所属をまたいで稼働する仕組みだった可能性もあります。修行を兼ねて渡り歩く職人も多かったようです。


そんな話をしている最中、門の前で日向ぼっこをしていた男・蛸助が入ってきて、鬢五郎の活躍ぶりを明かします。


「この鬢公は如才ねぇ。五、六町預かり、床も三か所預かって、弟子も抱えてる。そのうえ、この床は自分でも手を下ろして、欲張るから金がうなる」


この蛸助の話が本当であれば、鬢五郎は相当なやり手です。

五、六町の回り床屋を任され、三か所の床も運営し、弟子も多く抱えています。初めは留吉との二人と思われていましたが、どうやら違うようです。

蛸助は「いずれは台箱が金銀瑠璃瑪瑙(るりめのう)の寄細工になるだろう」とも語り、鬢五郎の将来を予想しています。


さらに話題は、かつての髪結床の様子に移ります。蛸助は「昔の髪結床は、汚い手桶に水を汲んで、みすぼらしい小盥(こだらい)だった」と語り、鬢五郎の床が整っていることをほのめかします。


そして、髪結床の障子に描かれた「絵障子」の話へ。『浮世床』には複数の紋所の図案が挿絵として登場します。絵心ある式亭三馬ならではです。「絵障子」は紋所のほか、武者絵や達磨、海老、役者などが障子に描かれていました。これが床屋の名前の由来になり「達磨床」「海老床」などと呼ばれていました。

鬢五郎の床も絵障子があったと考えられますが、その絵柄は明示されていません。


『浮世床』は登場人物の出入りが激しく、話の展開も小気味よく、まるで落語のようです。

式亭三馬のフィクションではありますが、江戸後期の髪結、髪結床の様子を垣間見る貴重な資料ともいえます。

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