2021-05-25

江戸の髪結株

 髪結株は元治元年に一町一株として認められました。

江戸の町数は時代によっても違うし、町の規模も町によって違います。一町の住人は400人程度といわれていますが、多い町もあれば少ない町もあり、一つの町に一軒の髪結床があったわけではりません。時代によっても違いますが、町数の半数以下だったようです。


髪結株より早く湯屋株が一町一株として認められていましたが、やはり町数ほどの湯屋は存在しませんでした。髪結も湯屋も住人が少なく、立地条件の悪い場所では採算が合わなかったようです。


一町一株制は髪結床を町内自治に組み入れると同時に、一町に複数の髪結床を認めないという髪結の営業を保護する目的もありました。湯屋は主に火災防止の観点から統制しやすいように一町一株にしたようです。


髪結株にしろ湯屋株にしろ株を所有したのは、地主、家持などの富裕層の町人です。江戸中期以降になると近隣の農村部の豪農も江戸の町の株を利殖目的で買い取りました。人気のある髪結株は500両を超える金額で売買され、人気株は枝株に分割されて取引されました。


高値で取引された髪結株は、儲かっている髪結床です。株の投資対象である内床を基に町内、あるいは近隣の出床、辻床などを仕切っていました。また、近くの得意先を回る、いわゆる回り髪結の収益も少なくなかったでしょう。大勢が働く大店に、配下の髪結を差し向け、大店の番頭や丁稚などの髪を結っていたかもしれません。


高値で取引される株は、立地条件のほかに髪結床を仕切る親方の力量も大きく関わっています。髪結の腕がいいのはもちろん、大勢の職人を采配して経営する能力が求められます。手広く経営するには人手が必要です。しかも腕のいい職人を集めなければなりません。その点、腕がいい親方は弟子を集めやすい。

令和のいまも、メディアに注目されるような著名な理美容師のもとには募集しなくても助手として働きたい若い人が多く集まるのと同じです。


有力な親方は、人気の歌舞伎役者らとも親交があり、床屋の大暖簾といわれる役者を描いた暖簾を店先に出していました。おそらくタニマチ的な付き合いだったのでしょう、暖簾は役者から贈られたもので、集客のための宣伝に有効でした。


人気のある髪結床は江戸の髪結床でも数床ほどだったと思われます。その他の多くの髪結床は三人床といわれる、親方、中床(職人)、小僧の3人を基本にし営業していました。髪結株も安価に売買されていたと思われます。中には親方とその女将が下働きをし、夫婦二人で細々と営んでいる髪結床もありました。

江戸時代後期には、女将さんの月代剃りを禁止する触れが出されるくらいですから、零細な髪結床は少なくなかったようです。

このような零細な髪結の髪結株は二束三文だったかもしれません。


髪結株とよく比べれるのが、相撲の親方株です。相撲協会が公益法人に移行するまえの話ですが、親方株が億を超える金額で取引されたそうです。株取引の基本は需要と供給の経済原則にそったもので、髪結株の値段も基本は需要と供給でした。

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