2025-11-09

幕府が禁じた女髪結は、庶民の豊かさが生んだ職業

 江戸時代に徳川幕府が行った改革には、享保・寛政・天保の三つがあり、一般に「三大改革」と呼ばれています。

これらはいずれも乱れた世の中や悪化した財政を立て直すためのもので、改革前の元禄時代・田沼時代・大御所時代は「悪政」として評価されてきました。昭和期の教科書ではそのような書き方が一般的でした。


しかし、この評価はあくまで幕府や為政者の視点によるもので、町民や百姓など一般庶民にとっては異なる見方もあります。たとえば享保の改革では、ぜいたく品の引き締め策によって「魚河岸の道が乾いた」といわれました。景気のよい時代には魚を扱うため大量の水を使い、魚河岸界隈の道は常に濡れていましたが、改革以降は高級魚の取り扱いが減り、草履でも歩けるようになったというのです。


寛政の改革以前の田沼時代(宝暦から天明にかけて)は、賄賂の横行があったものの、商業を重視した田沼意次の政策により景気は好転し、庶民の懐も温かくなりました。

江戸に女髪結が登場したのは、まさにこの時期です。はじめは遊女や富裕層の女性を対象にしていましたが、次第に庶民の女性たちの髪を結うようになります。大坂では江戸より早く女髪結が活動していましたが、女性が女性の髪を結う職業として成立したのは、この時代といえます。


それまで女性は自分の髪を自分で結うのが習慣でしたが、庶民の生活が豊かになるにつれ、女髪結に任せることが定着しました。ところが幕府はこれを「女性にあるまじき行為」とみなし、寛政の改革で女髪結を規制します。町年寄を通じて町名主に触れが出され、町内に女髪結がいれば転職を促すよう命じたのです。実際の対応は町名主に委ねられていたようです。


この触れが江戸府内のみを対象としたのか、幕領全体に及んだのかは定かではありません。おそらく幕領の範囲にとどまったと考えられます。町名主によって対応には差があり、結局この規制は徹底されませんでした。寛政の改革を推進した松平定信が失脚すると、女髪結の活動は再び活発になります。すでに女髪結は女性にとって必要不可欠な存在であり、数少ない女性の職業として定着していたからです。


寛政の改革では、人足寄場や七分積立などの貧民救済策も実施されましたが、享保の改革と同様、ぜいたくの禁止や出版統制が行われ、町の活気は失われていきました。


徳川家斉の大御所時代を迎えると、江戸の町は再び活気を取り戻します。時代劇で多く描かれるのはこの文化文政期です。女髪結も活動の範囲を広げ、より一層活発に仕事を行うようになりました。


その後の天保の改革では、幕府の権威回復を目的に行われましたが、三方領地替えや上地令などが撤回され、かえって権威は失墜します。農村振興を目的とした「人返しの令」も成果を上げませんでした。

倹約令によってぜいたくが再び禁止され、女髪結への取締りも強化されます。寛政のときのような「転職勧告」ではなく、実際に捕らえられ手鎖の刑を受けた者もいたと伝わります。


この改革は庶民だけでなく、武士や商人層など幅広い階層から反発を受け、水野忠邦は失脚しました。女髪結は再び復活します。正式に公許されるのは明治維新後のことですが、幕末から明治期にかけて最盛期を迎えます。


宝暦から天明にかけて誕生した女髪結は、庶民の経済的豊かさに支えられた職業でした。女髪結は庶民の生活に欠かせない存在であり、幕府がこれを禁止したのは明らかに時代錯誤だったといえます。ぜいたくを禁じる発想そのものが誤りであったことを、庶民の目線から見れば理解できます。


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幕府が禁じた女髪結は、庶民の豊かさが生んだ職業

 江戸時代に徳川幕府が行った改革には、享保・寛政・天保の三つがあり、一般に「三大改革」と呼ばれています。