簪(かんざし)の歴史は古く、縄文時代にまでさかのぼります。当初はおしゃれのためではなく、魔除け的な目的で細い棒を頭に挿していたといわれています。
その後、大陸との交易によって中国からさまざまな髪飾りが伝来しましたが、平安時代になると垂髪(すいはつ)の国風文化が普及し、簪は一時的に廃れてしまいました。
簪の語源には諸説ありますが、「髪に挿す」ことから「かみさし」→「かんざし」に転じたという説があります。この説では「髪」が「神」に通じることから、もともと魔除け的な意味で使われていたこととも符合します。
簪が広く用いられるようになったのは江戸時代、17世紀後半に日本髪が結われるようになってからです。鉄製や木製(つげ、桐など)のものが作られ、後には鼈甲(べっこう)や玳瑁(たいまい)、象牙(ぞうげ)、さらには金銀を施した豪華なものも登場しました。
簪には耳かきが付いていることが多いですが、これは幕府の奢侈禁止令を逃れるための工夫だといわれています。贅沢な簪を禁じられたため、「これは耳かきである」と見せかけることで取締りを回避したのです。これは庶民の知恵の一例で、江戸時代には同様の工夫が数多く見られます。
『武江年表』(斎藤月岑)の貞享年間(1684〜1687年)の記事には、笄(こうがい)や簪についての記述があります。これを校閲した喜多村信節(『嬉遊笑覧』の著者)は、誤りを指摘しました。
『武江年表』の記述は、『好古日録』(藤貞幹、18世紀末)を引用したものです。そこには「笄は貞享年間に作られ、十数年で全国に広まった」とあります。しかし喜多村信節はこれを否定し、「ここでいう笄は簪の誤りである」と指摘しました。さらに、簪に耳かきを付けたのは御厨子所預の紀宗図南(号・図南老人)で、享保年間(18世紀前半)に考案されたものであると論じています。
耳かき付き簪の登場時期については、17世紀後半とする説、18世紀前半とする説があり、半世紀ほどの差があります。風俗史では引用文献によって説が分かれることが多く、断定は困難です。とはいえ、政治史や事件史と異なり、500年近くも昔の風俗については半世紀程度の違いは誤差の範囲内ともいえるでしょう。
考証学者・喜多村信節は、髪結職の由来を記した『一銭職由緒書』を「取るに足らぬもの」と一蹴した人物です。今回紹介した『武江年表』でも『好古日録』を「笑うべし」と切り捨てており、その姿勢は容赦がありません。

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