真如堂縁起絵巻(鈴聲山真正極楽寺〈真如堂〉蔵)には、応仁・文明の乱以降の戦乱で活躍する足軽の姿が描かれています。
この絵巻は大永4年(1524年)に完成したと伝えられています(真如堂)。この絵巻より半世紀前に著された『樵談治要』(しょうだんちよう/一条兼良)にも、戦場で戦う足軽の記述が見られ、当時すでに足軽の存在が一般的であったことがわかります。
足軽は武士とは異なり、雇われ兵であり、正規の武士に比べて軽装で、主に集団戦法で戦っていました。下層の都市民や貧しい地方から流入してきた者が多く、時には放火や略奪を行うこともあったとされています。
注目すべきは、絵巻に描かれた足軽の多くが月代(さかやき)をしていることです。鎧兜や折烏帽子を身に着けた武士については、この絵からは月代の有無を判別できませんが、月代をしていた可能性もあります。月代は本来、兜を被る武士が蒸れやのぼせを避けるために剃ったとされますが、兜を着用しない足軽までもが月代をしている様子が絵巻から読み取れます。
一説には、月代が広く普及したのは織田信長が剃刀を用いて月代を奨励したことによるといわれています。それ以前は「けっしき」と呼ばれる大型の毛抜きで頭髪を抜いており、痛みを伴い出血もするため、あまり一般的ではなかったようです。とくに主従関係が希薄で、兜も着用しない足軽がこの「けっしき」で月代にしていたとは考えにくいのです。
しかしながら、この絵巻が当時の実態を反映しているとすれば、16世紀にはすでに剃刀による月代が存在していた可能性もあります。
戦国時代は、鎌倉時代までの戦乱とは異なり、民衆を巻き込んだ総力戦でした。足軽のほかに僧兵も多く、仏具としての剃刀が僧侶によってもたらされた可能性も考えられます。
一方で、足軽は兜を被ることは少なく、主に陣笠を使用していました。陣笠は密閉性が低いため蒸れることは少なく、敵味方の識別のために装着されていました。鉄製のものもありましたが、皮や和紙で作られた軽量なものが主流だったとされています。
足軽にとって月代は機能的には不要と思われますが、絵巻に登場する足軽の多くが月代であることから、見た目の「強さ」や「威勢の良さ」を演出するためだった可能性もあります。江戸時代前期には、任侠や町奴、旗本奴などが大きく月代を剃り込んだ「大額(おおびたい)」で登場しますが、これもまた、見た目の強さを象徴する髪型だったようです。
ただし、今回紹介した真如堂縁起絵巻は、実は元禄5年(1692年)に真如堂が焼失した後に制作された写本です。元禄期はまさに「大月代」が流行していた時代であり、写本の作者が当時見慣れた風俗を反映させてしまった可能性も否定できません。
*絵巻は国会図書館デジタルアーカイブスより
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