徳川将軍の髪は、将軍に近侍する御小姓が整えており、「御髪番(おぐしばん)」と呼ばれていました。将軍に刃物を当てるという重要な役目だけに、大変緊張したことでしょう。
江戸時代後期に御小姓頭取を務めた竹本要斎が、明治期になって『旧事諮問録』(岩波文庫)で語ったところによると、御髪番は御小姓や御小納戸の中から、月代剃りや髪結いの稽古に打ち込み、腕の立つ者が選ばれたそうです。人数については「6、7人ほどいましたろ」と述懐しています。
この証言は『旧事諮問録』第4編に収められており、採録日は明治24年6月15日とされています。
将軍の日常は、朝起きるとまず、うがいや手水(トイレ)などを済ませ、大奥へ向かい仏壇を拝んだ後、戻って月代と髭を剃るところから始まります。御髪は、将軍にとって一日の最初の身だしなみだったことがうかがえます。
月代を剃り終えると、それが合図となって御小納戸の御膳番が一汁二菜を載せた掛盤(御膳)を持ってきます。将軍は朝食をとりながら、御髪番が髪を結います。月代剃りや髭剃りのように集中が必要な作業は朝食前に済ませ、髪結いの際には食事を取りながらという流れだったようです。髪梳きは頭が動くため、将軍は髪梳きが終わった頃から箸を持ったのではないかと考えられます。髷を結う作業は頭が大きく動かないため、同時進行が可能だったのでしょう。
とはいえ、食事をしながら髪を整えるのは、落ち着かないのではと想像してしまいますが、将軍の朝は非常に多忙でした。
さらに朝食中には医師による健康チェックも行われていました。診察は「二人一組で十人五立」と呼ばれる体制で、日によって担当の医師2名が診断を行いました。専門も内科、外科、雑科などに分かれていたようです。
朝食後は神棚を拝み、林大学による御前講義、奥需者による講義、柳生但馬守による剣術指南、槍の稽古、乗馬、弓の稽古などが目白押しに続きます。イベントによって衣紋(装束)を着替える必要があり、そのたびに衣紋番が衣装の着脱を手伝っていました。
昼食のあとは政務に入り、御側用人が老中からの政治報告や重要書類の説明、時には重罪人の処分決裁などを行います。
竹本要斎は『旧事諮問録』で、将軍の生活や表向き・奥向きの役職関係についてヒアリングを受けました。将軍の生活空間には、公的な「表」、私的な「奥」、そして家族の居住空間である「大奥」の三つがありましたが、竹本は特に「奥」について詳しく語っています。そのなかで御髪番についても言及されています。
「奥」には、身の回りの世話をする御小姓や御小納戸のほか、奥右筆、奥坊主、御庭番、奥医師などが所属していました。また政務を担う側衆として御側御用取次も存在しました。
竹本要斎は、天保14年(1843年)に小納戸に召し出されて以降、家慶・家定・家茂と三代の将軍に仕え、小姓頭取介、外国奉行、小姓組頭格奥勤、御用取次、御側衆、留守居役並などの重職を歴任しています。非常に有能な旗本であったことがわかります。
明治維新では、江戸城の無血開城が有名ですが、その実務を担ったのは、薩摩藩側の家老・小松帯刀と、幕府側の竹本要斎らだったようです。維新後は帰農し、東京で磁器製品の製造を始めたとされ、「竹本焼」と呼ばれる窯元を開きました。
なお、将軍に仕えていたある日、竹本は上様から「将来は何になりたいか」と問われたことがあるといいます。各小姓たちが思い思いの夢を語るなか、上様は「公方にはなりたくない」と漏らしたといいます。公方とは将軍を意味します。誰の発言かは明言されていませんが、将軍になりたくない将軍がいたようです。
身分社会とは、まさに過酷な制度だったのです。
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