文久3年(1863年)に派遣された第二回遣欧使節団には、随員の髪を結う担当者が二人いたようです。
名前は乙骨亘(おっこつ・わたる)と青木梅蔵です。
乙骨は当時22歳の青年で、儒学者の家に生まれた人物です。随員見習い的な立場だったと思われ、明治維新後は開拓使などに出仕し、第一回遣欧使節団の随員だった上田友輔の娘と結婚して上田姓に改姓しました。詩人・上田敏はその長男にあたります。
一方の青木梅蔵については詳細が不明ですが、身分の低い人物であったようです。随員の身の回りの世話を担当し、その一環として髪を結っていたと考えられます。
乙骨は『幕末 写真の時代』(ちくま学芸文庫)で「理髪師」として紹介されています。出典は明示されていませんが、明治期の資料に基づいた記述と思われます。また、青木は日記を残しており、日記自体は出版されていないものの、内容の一部は引用されており、使節団の日常や活動が伝えられています。
使節団の人数について、『幕末 写真の時代』では36名とされていますが、『旧事諮問録 江戸幕府役人の証言』(下巻、岩波文庫)において目付の河田熙(外国掛目付、奥右筆)は30人と述べており、実際には30名以上だったと推測されます。
理髪師といっても、当時の仕事は月代(さかやき)を剃り、髷を結う髪結いの業務です。月代は数日で毛が伸びて見苦しくなるため、こまめな手入れが必要でした。したがって、30人余りの使節団に対して髪結い担当が二人いるのは妥当といえます。
当時、理髪師や髪結いに特別な資格は必要ありませんでした。手先が器用で剃刀を扱い、篦櫛で髷を整えられれば誰でもできる仕事でした。江戸にあった藩邸では、単身赴任の藩士たちが互いに髪を結い合い、器用な者が髪結い役になることもありました。藩によっては髪結いや賄いに対して手当を支給する風習もあったようです。
髷の形にも藩ごとの特徴があり、江戸の庶民は侍の髷を見て出身藩を識別できたといわれています。
第二回遣欧使節団は、孝明天皇や攘夷派の意向を受け、横浜港の鎖港を条件に長崎と函館の開港を提案する交渉のために派遣されましたが、交渉は失敗に終わりました。訪問先はフランスのみで、他の欧州諸国へは赴かず帰国しています。
この使節団がエジプトを経由した際、スフィンクスを背景に撮影された写真は有名で、『幕末 写真の時代』にも掲載されています。同書には、パリ滞在中に訪れた写真館「ナダール」や医学研究所で撮影された写真も紹介されており、日本人の骨格研究のための撮影だったという説もあります。
残された写真には、月代・髷姿のほか、髪を後頭部に撫でつけたスタイルの者も写っており、タイトになでつけているため髷があるかどうかは確認できません。
また、カラー付きのYシャツを着用した随員の写真も存在します。これはパリで購入されたもので、河田熙が『旧事諮問録』で明かしています。
洋装化について「下(靴)から始まった」という説がありますが、実際には内着や下着の導入が先行していた可能性もあります。坂本龍馬が写した写真では、和装に靴というスタイルで知られていますが、一方で高杉晋作のように、早期に洋髪を取り入れ、草履を履いた和装姿で写真に写った人物もいます。
第二回遣欧使節団は、その外交的な意義や、尊王攘夷・佐幕開国といった内政的観点から多角的に評価されています。『旧事諮問録』では河田が使節団の内情を一部明かしており、青木梅蔵の日記からは使節団の生活風景、とりわけ異国の習慣に戸惑う様子がうかがえます。惜しいことに、青木の日記は現在のところ出版されていないようです。
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