式亭三馬が描いた『浮世床』では、髪結の料金が「32文」と記されています。これは、19世紀初頭の日本橋界隈にあった髪結床の実際の相場だったと考えられます。
ただし、この「髪結賃」は、同じ幕府直轄領内でも地域によって異なっていました。他藩であれば、当然別の料金体系だったはずです。加えて、時代が下るごとに料金は上昇する傾向がありました。
髪結業が成立したのは戦国時代の末期とされ、その頃は「一銭剃り」と呼ばれており、月代(さかやき)を剃って髪を結って1銭だったといわれています。江戸では17世紀初頭から髪結の仕事が行われており、当初は16文程度。これがやがて24文、28文へと上がり、19世紀初頭の『浮世床』が描かれた時代には32文となっていたようです。
江戸の町では、町奉行によって髪結賃が定められていました。これは、火事などの緊急時に、髪結職が町役所の書類を持ち出す「駆け付け役」という課役(かえき)を負っていた見返りに、料金が規制され、髪結の生活が守られていました。なお、この規定は町奉行支配下の江戸市中にある髪結床にのみ適用されました。
32文はあくまでも「最低料金」であり、ほとんどの客はこの料金で髪を結ってもらっていたようです。しかし、中には『浮世床』のご隠居のように値切る客もいれば、通人気取りで流行の髷(まげ)を求める客が心づけを渡すケースもありました。
同じ幕領でも、自身番(町の警備や火の見番)のない地域では、髪結床が夜回りなどの警邏を行うこともありました。このような町では、髪結賃が異なっていた可能性もあります。たとえば江戸近郊の品川宿では、髪結床に夜回りの課役があり、女性が床主になる際は男性の後見人が必要で、その後見人が夜回りを担っていたそうです。品川宿は町奉行ではなく道中奉行の支配下にありました。
また、19世紀中ごろの幕末期になると、開国による貿易の開始とともに物価が急騰し、髪結賃も36文、40文、やがては56文にまで上昇したといわれています。髪結賃は、当時の経済動向、つまりインフレと連動していたことがうかがえます。
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