2024-01-11

「役人風」 安政、万延のころもあった本多髷

 江戸中期、享保のころから流行った髷に辰松風、文金風、本多髷があります。

大きめの月代に高くとった細めの髻、細くて小ぶりな髷などの特徴があります。

辰松風、文金風に続き、ぞべ本多、豆本多、さらに本多八体といわれる髷が登場しますが髻の位置や髷の角度などに違いはあるものの基本的な特徴は共通しています。通人や遊冶郎(遊び人)が好んでした髷とされています。


同時期に女性の髷で燈籠鬢が流行りましたが、一時的なものでした。燈籠鬢にしろ本多髷にしろ、享保から寛政に至る江戸中期の社会情況を反映して登場した髪型で、この時期だけの髪風俗かと思ったのですが、本多髷は幕末にもした人がいました。


安政、万延のころの幕府の番士の一つの風俗として、『幕末の江戸風俗』(塚原渋柿園・著、岩波文庫)で、著者の塚原さんが自分の見聞をもとに「役人風」として紹介しています。

「本多頭に黒八丈の襟、黄八丈の着流し、羽織は黒縮緬の五紋あるいは三紋あるいは一紋の丸羽織、突袖をいたして極く短い大小を前の方へ差し雪駄チャラチャラで歩いております」

「役人風」は簡単にいうと、本多髷に着流し、小ぶりの大小の刀を差し雪駄を履いてチャラチャラ歩いている、といった風体です。塚原さんは記憶している「役人風」を描き残しています(絵参照)。


この絵からは正確に判断できませんが、『賤のをだ巻』に出てくるぞべ本多、あるいは本多八体の一つ、金魚本多に近い結いぶりです。


この「役人風」にする番士は、旗本、御家人のなかでも並みの番士とは違い、能力が評価され、特別の御用係に任じられた番士がする風俗です。裃でなく着流しなのは、いつ出役(出張)を命じられてもいいように旅姿で登城するからです。これが非常な名誉だった、と塚原さんは指摘しています。

本多髷は、通人や遊冶郎が好んだだけあって粋です。着流しに本多髷の装いは、これ見よがしの風俗でした。


塚原さんが描いた絵は裾の長い着流しになっています。宝暦ごろの『当世下手談義』は、

「髷は頂上に上がり、眉毛抜いて業平に似たり、羽織長うして地をはらい、見るもの驚嘆せざるなし」

と文金風を紹介しています。

文金、本多の髷に派手な装いはセットだったようです。


安政、万延のころに注目を集めた「役人風」でしたが、幕末になって戦雲が近づくと武闘派の「講武所風」にとって変わられた、と塚原さんは解説しています。流行は世に連れ、です。


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