2023-12-27

髪結床番屋(床主)の相続

 前回、品川宿の一つ徒歩新宿(かちしんしゅく)の髪結株の動勢について紹介しました。

冥加金による株の取得は不調に終わったものの「宿方勘弁をもって」免除されています。そして髪結床番屋の相続は子息や身内で行われ、基本的には世襲といえます。


徒歩新宿には一丁から三丁までの三町があり、自身番を兼ねた髪結床番屋は宿役として見廻りなどを担ってました。


「しながわデジタルアーカイブ」は徒歩新宿が誕生した江戸中期から幕末までの一丁から三丁までの髪結床番屋床主の相続を表にまとめています。


床主の相続をみてみましょう。


株譲渡で、他人の髪結が床主に

<一丁目の床主の相続>

・初代:庄三郎。徒歩新宿が誕生した当初から髪結床として営業していた可能性が高い。初代庄三郎の名を二代目、四代目の床主も継いでいます。享保19年に病死。

・二代目:庄三郎。入り婿でやはり庄三郎を名乗っています。宝暦3年に病死。

・三代目:五郎八。初代庄三郎と「ねんごろの者」とあり、弟子の一人か親しい同業者だったのでしょう。明和8年に病死。

・四代目:庄三郎。2代目庄三郎の実子でやはり庄三郎を名乗ってます。床主の期間は明和2年4月から同3年8月と1年半と短期間です。「不埒にて取離」とあるので、問題を起こして辞めさせられたようです。

・五代目:与八。三代目庄三郎が死んだあと、庄三郎の後家かねの入り婿。床主の期間は明和3年9月から。明和7年閏6月に髪結株を「取立」とあるので、与八の代に髪結株を取得したのがわかります。

・六代目:甚五郎。与八の養子。床主の期間は安永3年4月から。

・七代目:兵蔵。六代目と同様、与八の養子。床主の期間は、寛政9年まで、となっています。五代目、六代目の床主の終了時は不明です。七代目の床主開始時も不明です。


初代から四代目までは髪結株はありませんが、同族の人が相続しています。五代目のときに髪結株を取得し、七代目まで養子が継いでいます。七代目の兵蔵が林蔵に株を譲渡し、初代庄三郎から続いた身内への相続は途切れました。


・八代:林蔵。株譲渡により床主になりました。床主の期間は寛政3年8月から同9年まで。

譲渡については「兵蔵が身上不如意となって、林蔵方より多額の借金をし、兵蔵の死後、後家のぎんより譲り受けた」と「しながわデジタルアーカイブ」は説明しています。


・九代目床主は忠兵衛。株譲渡により床主になっています。床主の期間は寛政9年から享和2年2月21日まで。

株の譲渡の経緯について、「しながわデジタルアーカイブ」は「享和二年(一八〇二)二月にいたり、林蔵より忠兵衛へ一六一両二分で譲渡されている。額面九〇両(実際の納金は四五両)の株式より七〇両余りも高い値段で取引されたことがわかる(資三一八号)」と説明しています。


・十代目:忠七。やはり株譲渡により床主になりました。床主の期間は享和2年から天保6年7月まで。

八代目、九代目、十代目は株譲渡により床主になった髪結で、前任の床主とは無縁の者です。


・十一代目:わか。十代目忠七の後家です。忠七は天保6年7月に亡くなった可能性が高く、後家のわかはその2か月後の9月に床主になっています。床主の期間は天保12年まで。備考欄に「後家清蔵」とあるので、清蔵の後家になったようです。


髪結床というと男社会で、女性とは無縁の稼業のように思われますが、江戸時代後期には女の髪結も存在しました。女性の髪を結う女髪結とは別に男の月代剃り・髷結いをする髪結女です。

天保13年に幕府は髪結女を禁止する「髪結女手伝下剃禁止令」を出しています。禁止令をだすほど多くの髪結女がいたのが推測できます。


徒歩新宿の髪結床は自身番を兼ねた髪結床番屋です。昼夜の見廻りは女にはむいてません。見回りは代理の者(後見人)がつとめたようです。わかが清蔵の後家になり、夫の清蔵は後見人として見廻りをしていた可能性がありそうです。


・十二代目:定吉。「わか身寄の者」とありあます。親戚筋です。床主の期間は、天保12年から安政2年5月29日まで。病死しています。

・十三代目:さき。定吉の娘です。安政3年8月24日から床主になっています。先代の床主終了から、さきが床主になるまで1年以上の空白があります。相続がスムーズにいかなったのかもしれません。

後見人は勝次郎となっています。


一丁目の髪結床番屋の床主は以上です。最後のさきで明治維新をむかえたようです。



女も株主に ただし後見人がつく 

<二丁目の床主の相続>


初代:権兵衛。床主の期間は不明。

二代目:源八。床主の期間は、宝暦8年3月25日まで。開始は不明。病死。五代目まで四代続けて源八を名乗っています。

三代目:源八。二代目源八の娘の夫。床主の期間は宝暦8年から。次代は明和5年に継いでいますが、明和7年に髪結株を取立てているので、床主を譲ったあとも仕事と関係していたようです。

四代目:源八。三代目源八の長男・源之助。床主の期間は、天明5年から寛政9年。病死。

五代目:源八。四代目源八の長男・藤助。床主の期間は、寛政9年から文政7年。病死。

六代目:みつ。五代目源八の後家。後見人は仁助。床主の期間は、文政8年から同9年。「みつが相続したとき同時に「継目受印帳」に押印している。」と「しながわデジタルアーカイブ」を記載しています。「継目受印帳」がどういうものなのかの詳細はありません。

七代目:磯吉。六代目みつの倅。床主期間は、天保6年9月から。おそらく維新まで続いた可能性が高い。

六代目と七代目の間に「預り人」として友吉が髪結床番屋を切り盛りしてました。「預り人」とは正式な相続人が床主になるまでの代理人かと思います。

この間、磯吉は「所々髪結出稼」とあり、髪結の修業を兼ねての出稼していたと思われます。


株返上で宿主が髪結を雇い委託

<三丁目の床主の相続>


初代:太兵衛。

二代目:太七。初代太兵衛の倅。床主の期間は、享保20年11月まで。「不埓にて取離」とあります。何かよからぬことをしでかしたようです。

三代目:庄兵衛。初代太兵衛の婿。床主の期間は、宝暦3年まで。開始はおそらく二代目が「取離」された享保20年からと思われます。病死。

四代目:利助。三代目庄兵衛の養子。床主の期間は、宝暦3年から明和7年。明和7年に株を取立ています。

五代目:利八。四代目利助の倅。床主の期間は、明和7年から寛政11年まで。寛政11年に隠居したようです。

六代目:利八。五代目利八の倅。床主の期間は、寛政11年から文化5年。病死。

七代目:とよ。六代目利八の妹。床主の期間は、文政8年6月から同年7月まで。先代の文化5年から文政8年まで手続きをしていないのは、「相続者とよが女子であったためかもしれない」と「しながわデジタルアーカイブ」は推測しています。「後家仁兵衛」とあり、とよは仁兵衛の後家になり、仁兵衛が後見人として髪結床番屋の番屋仕事を手伝ったようです。

八代目:いち。七代目とよの養女。床主の期間は、文政9年から弘化2年3月まで。後見人は仁兵衛。この仁兵衛が髪結株(藤次郎株)を返上しています。


この経緯を「しながわデジタルアーカイブ」は次のように紹介しています。

「三丁目の髪結床は弘化二年(一八四五)三月、いちの代に借財多く、立ち行かなくなり、宿方へ株証文を返上したいと申し出て、納め金五五両と手当金九〇両合計一四五両を受け取り、髪結床番屋は宿へ引き渡された(資三二一号)。」


三丁目の髪結株が返上されたことで、髪結床番屋は宿名主の管理になりました。その後、

「嘉永四年(一八五一)六月、歩行新宿は、兼吉というものを一年契約で雇い入れ、三丁目の床番屋の預かり人にしている。給金は一ヵ月一貫四文であった(資三二二号)。」(「しながわデジタルアーカイブ」)

兼吉という髪結を1年契約で三丁目の床番屋で仕事を委託した、というわけです。


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