2023-12-21

とるに足らぬ『一銭職由緒書』、されど『一銭職由緒書』

 『一銭職由緒書』は各地にさまざまな写書が残されています。『髪余禄』で紹介した由緒書もそのひとつです。

大筋は同じですが、写書によって若干違いはあります。

『髪余禄』で紹介した由緒書(『兎園小説』正編/曲亭馬琴)は、亀山上皇の剣を紛失した経緯は略されていますが、この経緯を詳しく書いてある写書もあります。

また写す過程での誤字、脱字も多く見受けられます。藤七郞と藤十郞が混在していたりします。

由緒書の要点を①から⑤にまとめて紹介しました(下)。由緒書のポイントは、業をはじめた人(業祖)の高貴さ(①)と、徳川家(徳川家康)に貢献したこと(②の上段)にあります。


①宮中の警護にあたる北面の武士、北小路基晴は亀山上皇の剣を盗まれ、全国を探索し元寇の役で通行の多い下関に居を構えた。3人の息子の一人、采女亮が髪結職になった。

基晴の死後、采女亮は鎌倉へ移り、桐ケ谷で「松岡」と名乗った。


②采女亮の七代(17代?)の孫、北小路藤七郞が戦国時代、三方ヶ原に流浪する。武田軍に破れた徳川軍は浜松へ退去するが、大雨で満水だった天竜川に難渋していたときに、水練にたけた北小路藤十郞(藤七郞?)が浅瀬を案内し、無事に浜松に帰城できた。大神君(徳川家康)は満悦し、諸国の通行を自由とした。


また徳川軍のしんがりをつとめた本多忠勝の勧めで三河國碧海郡原之鄕まで御供し、大神君の髪を結い、当座の褒美金として錢一錢・御笄(かうがい)一對を榊原康政を通じて頂戴した。これが髪結を一銭職と呼ぶ由来になる。


③慶長8年、徳川家康が江戸に入府する際、「一錢職」分の繁七郞(藤七郞?)が武藏國芝口の海に近いあたりで髪結渡世をしていたところ、城に召し出され、先年の御褒美として靑銅千疋を頂戴し、ますます一銭職分に励んだ。


④万治年中、徳川家綱将軍の時代に北小路藤七郞の四代の孫、北小路總右衞門(幸次郎)は神田三河町へ転居し、江戸府内の「一錢職」分の株を願い出たところ、由緒ある職分なので、「御公儀樣御朱印」を下され、「一錢職」株も成立し、「一賎(錢)職」の仕事が世襲できるようになった。


⑤享保年中、徳川吉宗将軍の時代に町奉行、大岡越前守役所(奉行所)に諸職人が召し出だされ、それぞれ役儀が仰せつけられたが、「一錢職」分については天竜川での功績があったことから、役儀御免(免除)となった。しかし、冥加金相応の役儀を申し出、出火の際、南北奉行所へ駆け付け人足役をつとめることになり、株も渡世も続けることになった。


①に書かれた北面の武士は、天皇や上皇を護衛する近衛兵です。天皇の親衛隊で、同じ武士でも格が違います。殿上人として扱われ、北小路家は明治維新後、華族に遇されています。


とるに足らぬ『一銭職由緒書』とはいうものの


荒唐無稽な偽書とされる『一銭職由緒書』、「とるに足らぬもの」と一蹴する学者もいますが、髪仕事に携わる理容師さん美容師さん、かつら屋さんなどなどにとって、一つの拠りどころになっている面もあります。たとえるなら日本神話(古事記、日本書紀)の髪仕事版ともいえます。


イザナギ・イザナミの二神が国つくりの神として祀られるように、髪仕事の祖として采女亮が崇められています。髪仕事に携わる多くの人のアイデンティティーになっている存在といえます。


また『一銭職由緒書』から当時の髪結事情をうかがい知ることができます。

『一銭職由緒書』はそもそも享保の改革で、株仲間として認めてもらうために書かれました。業に携わる人の高貴さと、徳川家、徳川家康にいかに貢献したかが強調されています。これは髪結株に限ったことではありません。

髪結株については、享保改革の半世紀前に、すでに一町一株となっていて、独占営業権は確保されていましたが、その確認と継続の意味合いもあった、と思われます。


享保の改革では、いろいろな職業の由緒書が作成されていますが、業祖を崇め、徳川家に貢献したくだりは『一銭職由緒書』に限らず、眉唾ものです。しかも似通った内容の由緒書が多く、由緒書を専門に創作していた文筆者がいたのかもしれません。


このへんのところは「とるに足らぬもの」とされても仕方ありませんが、文章のところどころに、由緒書が書かれた当時の業の状況がわかる部分があります。また由緒書が写書されて全国諸所に広まり、のちのち由緒書を踏まえた職業風俗が誕生しました。


とるに足らぬ『一銭職由緒書』とはいうものの、それなりの価値はありそうです。


床屋の由来

『髪余禄』で紹介した『一銭職由緒書』(『兎園小説』正編/曲亭馬琴)にはありませんが、他の由緒書に床屋の由来とされる内容があり、それによると、

「采女亮が開いた店には床の間があり、そこに亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸があった」

といいます。

そこから、「床の間のある店」→「床場」→「床屋」と呼ぶようになった、と床屋の由来を説明することがあります。「床の間」由来の床屋説です。


床屋の呼称には諸説ありますが、戦国時代末期の安土桃山時代に描かれた絵画史料をみると、橋のたもとに床をかけただけの小屋で髪結をしている絵が残されていますし、二つの石に板をかけ、そこに客を座らせ髪結している絵もあります。

床屋とは簡単な床場に由来している、という説です。


月代剃り・髪結の仕事が発生した当初は、人通りの多い繁華な道端で仕事をするか、仮設の小屋をかけて営業していましたが、17世紀後半になると見世を構えて営業するようになります。内床といいます。客は床の端に腰をかけて、髪結は客の後ろから月代を剃り。髪結をします。

床に腰掛けることから、床屋という名称が生まれた、という説です。


「床の間」説は、由緒書特有の業をよりよく見せるための創作の可能性が高い。


いづれにせよ、床屋という職業名は由緒書が書かれた享保、江戸中期にはすでに広く通用していたのがわかります。そして床屋という職業名は髪結仕事から西洋理髪に変わっても、さらに現在でも通用している言葉です。


『一銭職』


『一銭職由緒書』の名称から、髪結床が一銭職といわれていたことがわかります。

『一銭職由緒書』は一銭職の由来を次のように記述しています。

「増水した天竜川で難儀した徳川軍、徳川家康を助けたあと、しんがりの本多忠勝のすすめで、采女之介の子孫である北小路藤七郞が三河國碧海郡原之鄕までお供したおり、家康の髮を結い、当座の褒美として錢一銭を頂戴した。「以來、結髮の總名を『一錢』と唱ふ者なり。」

家康から褒美として一銭を頂戴したことに由来するという説です。


この話は作者の創作ですが、当時、髪結職を「一銭職」と呼んで通用していたのがわかります。

髪結職が興ったころの安土桃山時代から江戸初期にかけては一銭剃り、一銭結いと呼んでいました。橋のたもとや道端に床を張り、月代を剃り、髷を結い、料金は手軽な一銭だったようです。


江戸時代中期になると江戸府中では、20銭、24銭、後期には28銭、32銭が髪結賃になりますが、時代が下がるにつれ値上がりし、また場所によってもまちまちです。ですが、髪結職が興ったころの名残りである「一銭職」は江戸中期にも知られてたようです。


しかし、現在まで通じる「床屋」と違い、明治以降途絶えてしまいました。


髪結床の長暖簾


『髪余禄』で紹介した『一銭職由緒書』には床の間の記載はありませんが、采女之介の住宅は往来に面し、「面體、顯はれ難きやう、雨落より三尺張出し御免にて、長暖簾四尺二寸」とあります。武門の出である采女之介と采女之介の客の顔、風体がわからないよう、目隠しのために軒を張り出し、4尺2寸(1メートル30センチほど)の長暖簾をかけた、といいます。


この表現は、江戸中期の江戸府内の髪結床の風景を書いたのだと思います。

髪結床の長暖簾は、贔屓筋の歌舞伎役者から贈られることが多く、暖簾には贈り主の役者絵が描いてあり、役者も宣伝になったし、髪結床も宣伝になった。


普通の町の髪結床は「奴」や「海老」、「鬼」など思い思いの絵を障子に描いていましたが、長暖簾の髪結床は耳目を集めたのでしょう。


また、「顔、風体がわからないよう」つまり人目を避けるのは、髪結という仕事は当時賎職扱いはされていないにしろ、下層職の認識があったのかもしれません。


17日が髪結床の定休日


江戸府内の話でしょうが、髪結床は毎月17日が定休日だったといいます。この風習は明治以降も続いています。


『髪余禄』に紹介した『一銭職由緒書』には記載がありませんが、他書によると家康の命日が4月17日だったことから、家康を敬い月命日の17日を休みにした、という説があります。


江戸時代は雨天休業など不定休での休業が大半です。基本は年中無休で、休みは盆と正月に数日ある程度です。髪結床の仕事は髪結のほか、町の課役を行います。かなりハードだったようです。そこで毎月17日に休んだのかもしれません。


家康を祀るためなのか、たまたま定休日が17日だったので、無理やり家康と関連付けたのか、わかりません。この毎月17日休業は昭和の戦前まで続いていたといわれてます。17日定休はあったとしても限定的な地域でのことのように思われます。


働き方改革が言われる昨今ですが、江戸時代の髪結職は他業に比べ労働環境はましだった?


髪結の課役は「駆け付け人足」


『一銭職由緒書』(『兎園小説』正編/曲亭馬琴)によると、

「他職は役義(課役)を負ったが一銭職は天龍川での恩義があるので、「御役義御免」(免除)となった。しかし、髪結株が認められその冥加金相応の役儀を申し出て、「出火の砌り、兩御町奉行所へ缺(か)け付け、御記錄、御長持入るる御役義、相ひ勤め」ることになった」

とあります。


火事の際、南北奉行所への「駆け付け人足」が髪結職の課役になった、とされています。この一文から、髪結職=「駆け付け人足」が定着したようです。


髪結床は、江戸府内の町々にあります。南北の奉行所近くにある髪結床は南北奉行所への「駆け付け人足」の課役だったとしても遠方の髪結床はあまり役に立ちません。髪結職=「駆け付け人足」は間違いではありませんが、これがすべてというわけではありません。


牢屋の近くの髪結床は、囚人の月代剃り、髪結が課役でしたし、橋に近い髪結床は橋番を兼ねていました。これ以外にも地域の事情に応じた課役があったものと思われます。


町が用意した髪結床番屋で髪結仕事をすることが多く、町の入り口にある自身番の仕事を補佐する課役を担っていました。とくに町の保安、警備です。片町は別にして両町では自身番屋と髪結番屋は道をはさんで両側に置かれるのが一般的でした。


髪結床は町名主の采配を受けるのが基本です。

名主が采配する町に奉行所があれば駆付け人足役、牢屋があれば囚人の月代剃り、橋があれば橋番といった具合だったと思われます。由緒書では南北の奉行所となっていますが、名主宅にも書類などがあるので、名主宅への駆付け役もあったのではないかと思います。



諸國の關所 通行自由

『一銭職由緒書』には、髪結職が自由に諸国を通行できるようになった経緯が書いてあります。

天竜川で北小路藤七郞が家康を助けると、喜んだ家康は

「以來、諸國の關所、川の川渡し場等まで、相違無く御通し下さえ置き候ふなり。」

と、一銭職は諸國の關所を自由に通行できるようになったと書いてあります。


髪結の仕事は鬢盥一つを持って、あちこちを回ることもありますが、一か所で仕事をすることが多い。藩をまたいで関所を通過するような移動はあまりしない。この一文は髪結職には違和感があります。

他の仕事のなかに全国を旅をしながら仕事をする職もあり、それを踏まえての自由通行のようです。香具師、乞胸、願人坊主、虚無僧、諸芸人らです。それらの由緒にならって書いたのかもしれません。


『一銭職由緒書』はやはり、いい加減な偽書なのです。



髪結株は藤次郎株ともいう


『一銭職由緒書』によると、

「万治年中、徳川家綱将軍の時代に北小路藤七郞の四代の孫、北小路總右衞門(幸次郎)は神田三河町へ転居し、江戸府内の「一錢職」分の株を願い出たところ、由緒ある職分なので、「御公儀樣御朱印」を下され、「一錢職」株も成立した」

とあります。


武江年表にも万治元年(1658)に一町一株の髪結株が認められた、とあります。江戸府内だけでなく、髪結では当時先進の地といえる京都でも認められた、と武江年表にあります。町の治安維持を目的にした一面もある株の認可といえそうです。


これに先立つ寛永17年(1640)に江戸府内の髪結に対し、鑑札が渡されています。札銭は髪結が2両、弟子は1両となっています(年額)。江戸時代の早い時期から公儀は髪結を町の自治に組み入れようとしたのがうかがえます。

享保の改革では、髪結株の存続を確認するとともに、髪結に諸役を課したのではないかと思われます。


ところで髪結株のことを床屋株ともいいますし、藤次郎株ともいいます。

『一銭職由緒書』(『兎園小説』正編/曲亭馬琴)には、藤次郎なる人物は登場しませんが、他の由緒書にあるのかもしれません。もしくは当時の髪結職の統領、髪結頭(かしら)が藤次郎(北小路藤次郎?)だったのかもしれません。


職種によっては統領が代々、世襲されることがあります。北小路藤次郎が髪結の統領として世襲されていたかもしれません。

職種、あるいは身分によっては、統領は配下の同業者を統率していましたが、髪結職は町の自治に組み込まれています。職分の統領がいたとしても江戸府内のせべての髪結職が配下にはいることは考えられません。数町を采配する町名主単位での髪結頭はいた可能性は高い。


江戸古川柳をみると、髪結の仕事仲間の寄合があったことがわかります。ただ、寄合での眼目は流行りの髷の結い方だったり、技法的な情報交換が多かったようです。そのへんのところはいまの理美容職と変わらない。


『一銭職由緒書』

https://kamiyoroku.blogspot.com/2023/11/blog-post_30.html


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