2023-06-25

明治天皇の洋装化と散髪

 明治天皇が散髪したのは明治6年3月20日のことで、そのことについてはすでに掲載しました。

<明治天皇の断髪は明治6年3月20日>

https://kamiyoroku.blogspot.com/2020/12/6320.html


明治天皇の散髪は突然のことではなく、散髪に至るまでには経緯があります。

一番の要因は、軍隊の洋式化がありそうです。日本の陸軍、海軍は欧米列強の軍隊にならい、練兵します。軍の頂点に立つ天皇も閲兵するときなどは洋装の軍服を着用することになります。


軍の洋装については、明治3年12月の「陸海軍制服」規定で、明治3年には洋装が導入されていたのがわかります。実際には幕末に洋式調練を受けた幕府や藩の兵士はすでに洋装していましたが、国の軍隊として正式に洋式の軍服が採用されたのはこの制服規程になります。


国としての洋装化は、明治4年8月の「服制更革の内勅」、明治5年11月の「大礼服通常礼服の制定」などで、それまでの和装から洋装へと変わっていったようです。


天皇の洋装化は明治4年4月に、横浜居留地の裁縫師、ドイツ人ブラントが宮内省を訪れ、天皇に採寸して洋服を作っています。5月にはその洋服を着用して、参内者(橋本實麗/正二位)に接見したことが伝えられています(宮内庁、『明治天皇紀』)。


これが明治天皇の洋装の初めかというと、そうではなく、すでに明治2、3年ごろには軍服を着用して練兵を謁見しています。

前述のブラントが裁縫した洋服は誂え品として初の洋服といえそうです。


また明治天皇はことのほか乗馬が好きなようで、頻繁に乗馬で遠出しています。どの時点で和鞍から洋式の鞍に変更したのかは不明ですが、和鞍と洋式の鞍では乗馬方法も着用する衣服も異なるので、洋式の鞍になれるには洋装して練習したはずです。


ところで、明治4年8月の「服制更革の内勅」は臣下以下を対象にした衣服の制定ですが、この内勅というのは、


朕惟フニ風俗ナル者移換以テ時ノ宜シキニ随ヒ國体ナル者不抜以テ其勢ヲ制ス 今衣冠ノ制中古唐制ニ模倣セシヨリ流テ軟弱ノ風ヲナス 朕太タ慨之夫レ神州ノ武ヲ以テ治ムルヤ 固ヨリ久シ天子親ラ之カ元帥ト為リ衆庶以テ其風ヲ仰ク


神武創業 神功征韓ノ如キ今日ノ風姿ニアラス豈一日モ軟弱以テ天下ニ示ス可ケンヤ 朕今断然其服制ヲ更メ其風俗ヲ一新シ祖宗以来尚武ノ国体ヲ立テント欲ス 汝等其レ朕カ意ヲ体セヨ


尋いで九月四日又同勅諭を近臣に賜ふ、又是の日、御服制定のため、兵部省をして締盟國帝王の軍服等の制を調査せしめらる、蓋し本邦固有の風姿に則り、泰西諸邦の式を用ゐたまはんの叡慮に外ならず


ざっくりと今風に訳すと、

風俗や衣服は時流によって移り変わるもので、古来からの衣冠などの装束はいにしえの唐の模倣で日本独自のものではありません。しかも軟弱なものです。

神代のむかしから武をもって国を治めるには天皇がまず見本を示します。庶民は天皇を見習ってください。


軟弱な風姿を改め、皇室の祖の神武、征韓をなした神功の如き強き時代の威風にし、時代に応じた国体にしたいという私の意向を理解し、皆は体現してほしい。


以上が内勅の超意訳です。


尋いで(ついで)以下は、後日の追記かもしれません。

内容は、

洋服の着用は諸外国の服装を調査した結果であり、時代に即応させたもので、西洋の模倣ではありません。


この内勅は、洋装化するにあたって、大義名分がほしかったために発出したようです。どうみても西洋の模倣で、「ついで」以下は、苦しい言い訳のように読めてしまいます。

1000年以上続いた和式の服装を大陸伝来のもので軟弱と切り捨てるのも大胆ですが、これは洋装化への決意の現れかもしれません。また当時、清国は国が乱れていて、列強から侵略されてのが背景にあるのかもしれません。


明治天皇が散髪するのは明治6年ですが、それまで(明治3年ごろから)は天皇は和と洋を使いわけていました。散髪するまでは立髻です。洋装の場合(主に軍装ですが)は、立髻を治めるこができる帽子を着用していました。


洋髪は洋装とほぼ一体なのは天皇も庶民もかわりません。


*写真は、明治天皇が散髪後の明治6年10月に下賜用に撮影したもの(内田九一撮影、撮影場所、宮中写真場)


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