2025-08-20

「髪結」は「一銭剃り」ともよんだ|喜多村信節が示した史料

 「髪結(かみゆい)」は江戸時代に広く呼ばれていた職業名ですが、「一銭剃(いっせんぞり)」あるいは「一銭職(いっせんしょく)」とも呼ばれていました。『嬉遊笑覧』の中で喜多村信節がその出典を紹介しています。

『雍州府志』からの記述


「おおよそ町ごとに髪結床あり、諸人はここに来て結わせる。また市中をめぐり月代を剃り銭を取る。これを一銭剃という」


『嬉遊笑覧』には、このもとの漢文も掲載されています。『雍州府志』は17世紀後半に歴史家・黒川道祐が著した山城(京都)の地誌であり、当時の京都の髪結について記述しています。このことから、17世紀の京都では髪結を「一銭剃り」と呼んでいたことがわかります。


喜多村信節による紹介


喜多村信節は『髪結株起立』の中で「一文銭にて髪さかやきしたる成」と紹介しています。『髪結株起立』の詳細は不明ですが、『一銭職由緒書』(別名『髪結由緒書』)と類似した内容と思われます。『一銭職由緒書』には、髪結職の祖・采女亮(うねめのすけ)の子孫である北小路藤七郎が徳川家康の髪を結い、その礼として「銭一文」を拝領したことが「一銭職」の由来であると記されています。


喜多村信節の評価


この『一銭職由緒書』について、考証家であり国学者でもある喜多村信節は「取にたらぬ物ながら」として不自然な点を指摘し、厳しく評価しています。つまり「取るに足らぬもの」という評価を最初に示したのは喜多村信節であり、この見方は後に昭和期の歴史学者・江馬務らによっても踏襲されました。


『元禄曽我物語』との関わり


また、『嬉遊笑覧』において喜多村信節は『元禄曽我物語』にある「一千剃りの床に腰をかけ、月代一つ望む」という一文を紹介し、ここにある「一千剃り」は「ざれごとなり」と解説しています。『元禄曽我物語』は、鎌倉期の『曽我物語』を元禄時代に翻案した作品です。


学者である喜多村信節は、このように幅広い書物に通じており、その博識ぶりがうかがえます。

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