2021-10-03

梁職貢図 倭の使者をあえて未開国風に?

「梁職貢図」再び 
6世紀ごろの倭人の髪型はよくわかっていませんが、少ない史料のひとつが中国南朝の梁で描かれた「梁職貢図」です。 

 
 
この絵画資料で、倭人の使者はまるで未開の国からやってきた風体で描かれています。実際に目にした倭人を描いたのかもしれませんが、あえて貧相に描くことで倭の国が未開な野蛮国であることを強調した可能性もあります。もしそうなら、当時の国際情勢が背景にあるのかもしれません。

 梁が建国された当時の中国は南北朝の時代です。南朝の斉にかわって502年に武帝が建国しました。当時の北朝は北魏です。梁の建国にともない武帝は倭の武王(雄略天皇)を征東将軍に進号しています(『梁書武帝紀』)。このへんまでは倭と梁は良好な関係だったようです。 

 雄略のあと継体が倭の王になります。この継体王は大和の出身ではなく地方から王として迎えられました。雄略・継体間でなにか異変があったのかもしれません。そもそも継体という名前は怪しい、と高校生のころ歴史の授業で素朴に感じたものです。継体王、名をオホドさんというらしい。

 中国は王朝の血筋の系統を重要視するのが伝統です。もしかしたら雄略までの王家と継体とは別の王家と認識した可能性があります。 当時の朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の三国です。 高句麗、百済は、梁の建国前から北朝の北魏、南朝の斉と良好な関係があり、梁もそれを引き継いでいます。新羅は520年ごろ梁に入貢しています。

おそらく南朝・北朝は緊張関係を保ちながら並立し、そのためにも朝鮮三国とは友好な関係を築く必要があったのかもしれません。 梁にとって倭は海のかなたの遠い国です。しかも4世紀末から5世紀にかけて朝鮮半島に軍を進め、高句麗や新羅と戦っています(『広開土王碑』)。中国の王朝にとって倭は困った存在だったのかもしれません。 

 「梁職貢図」で倭人の風体をあからさまに未開風に描いたのだとしたら、そんな背景があったのかもしれません。

 【関連記事】「梁職貢図」の倭人の髪型は? https://kamiyoroku.blogspot.com/2021/03/blog-post.html

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。

ヒゲを当たる

 「ヒゲを剃る」ことを「ヒゲを当たる」ともいいます。