2021-10-31

大場秀吉、篠原定吉、芝山兼太郎 大日本美髪会の3理事

 『大日本理髪師名鑑』という理容師の名簿が大正2年に発行されています。この名簿には、日本内外の1万5千人を超す理髪師が掲載されています。



発行したのは明治39年に発足した大日本美髪会です。この会は、理髪や美顔の技術研鑽をしていた「一会」(はじめかい)という会から発展したもので、後の理髪業界、美容業界に技術面で貢献するとともに、理髪師の全国的な組織形成にも影響を与えています。

書名は『大日本理髪師名鑑』となっていますが、大日本美髪会の会員名簿とみて差支えないようです。


名鑑に掲載された役員をみると、

会長 男爵・中御門経隆(なかのみかど つねたか)

顧問 医学博士・古瀬安俊

の両氏が名誉職として名を連ねています。

中御門経隆男爵(1852年-1930年)は海軍軍人で教育者、貴族院議員をつとめた経歴があります。

古瀬安俊博士は、大日本美髪会の会員に衛生管理や消毒法を指導、助言したのだと思われます。


名簿には、

主幹・太田重之助

理事

中村喜太郎

芝山兼太郎

大場秀吉

篠原定吉

小俣長喜智

の役員が、名誉職に続いて掲載されています。太田重之助主幹が会の主宰者です。長野県出身で後年、主幹を子息に譲り、子息は医者として医院を経営したといいます。


5名の理事のうち、中村喜太郎、小俣長喜智の両理事の詳細は不詳ですが、当時の有力な理髪師であったのは想像できます。

芝山兼太郎、大場秀吉、篠原定吉の3理事はすでに理髪や美顔の技術者として指導的な立場にあった人たちです。


大場秀吉さんは、上海で当時の最先端の理髪技術を習得し、初代の天皇の理髪師として知られていますし、東京・芝田村町の理髪店は貴族や皇室、政界や経済界の大物が来店する一流の理髪店でした。


篠原定吉さんの平床は日本橋芳町にあり、大店の旦那衆や、役者・芸人、金融関係者らでにぎわったといいます。大場さんが武家地、篠原さんは町人地、山手と下町の人気店といえます。


芝山兼太郎さんは、美顔術の先駆者として知られています。

日本の理髪の草創期に活躍した松本定吉さんから西洋理髪を習得しました。大場さんとは一時期、横浜のグランドホテルの理髪室で共に職人として働き、技術を切磋琢磨した関係です。

二人は来日した米国人理髪師・キャンブルーから美顔術を学び、その後の営業に取り入れてますが、芝山さんは美顔術の指導者として有名です。後に日本エステティシャン協会の初代理事長になる芝山みよかさんは息女です。


この3人らを擁して発足した大日本美髪会は、明治末から大正にかけて活発に講習活動を行い、日本の理髪、美容の技術はもちろん衛生管理などに貢献した団体でした。その後、大日本理容協会に発展します。


写真は、『大日本理髪師名鑑』の表紙(一部)と奥付です


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