蘇我馬子が物部守屋を攻めたとき(587年)、曽我軍に参加した厩戸皇子(聖徳太子)は「ひさごはなの髪」をして味方を鼓舞した、という話が『日本書紀』にあります。
「ひさごはなの髪」とは?
「ひさごのはな」つまり「瓢花」。
夏ごろ夕顔に似た白い花が咲く、ウリ科ユウガオ属の蔓性一年草です。
「ひさごはなの髪」は、この瓢の花に似た髪のようです。額の前に束ねたらしい。
このとき厩戸皇子は、霊木と知られる白膠木(ぬりで)の木で作った、四天王の像を頭頂に置いて、
…今もし我をして敵に勝たしめたまわば、必ず護世四王(ごせしおう、四天王)のみために、寺塔を起立てん…
といって四天王の加護を願ったと伝わっています。
厩戸皇子の鼓舞が奏功したのか、劣勢だった曽我軍は物部守屋を討ち取った、と『日本書紀』は伝えています。
このとき厩戸皇子は14歳、曽我軍の最後尾に陣取っていたといいます。
「ひさごはなの髪」、結局のところ、どのような髪形だったのか、よくわかりません。ただ当時、縁起のいい髪形とされていた、と想像できます。
そもそも『日本書紀』は勝者が語った歴史です。いたるところに誇張があり、勝者に都合よく書かれている、と歴史学者は指摘してます。『日本書紀』以外の後世の勝者が語った歴史書も同様です。ただ、後世のものは他の史料もあり比較・検討できますが、奈良時代はほぼありません。
蘇我馬子と物部守屋の戦いは王位継承にからんでの戦いです。そこに仏教を信仰したた厩戸皇子の逸話として、「ひさごはなの髪」、四天王の像を入れ込んだのではないかとも思われます。曽我氏も仏教派です。物部氏は反仏教派といわれています。
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