2024-07-24

日本の髪型の歴史を俯瞰する

 古墳時代以前の弥生時代、縄文時代の我々のご先祖様の人たちは、伸ばしたままの垂れ髪をしていたと考えるのが妥当です。


髪を短くするといっても、鋭利なナイフ形の石斧を使うか、燃え終えた棒を髪に当てて短くするぐらいです。髪の手入れといっても手櫛ぐらいです。縄文時代の遺跡から縦櫛が出土していますが、これを使用できるのは特別な人だけで、祭礼のときに使用したという説が有力です。


この時代は土偶などで想像するほかありません。オカッパ状と思える土偶もあるし、いくつかのこぶ状の結びと思われる土偶や上げ髪のような土偶もあります。想像をたくましくするしかありません。

土偶に残された髪型は、特別な人の可能性が高く、特別でない普通の人はやはり垂れ髪状態にしていたと考えられます。


遺跡から鳥の足の骨などが出土します。まっすぐな骨を利用して髪をまるめ留めていた可能性があります。江戸時代に笄髷がありますが、その元となる利用法を古代の人もしていたかもしれません。


古墳時代は、日本固有の角髪(みずら)が知られています。弥生時代後期には角髪をする人がいたかもしれません。しかし、角髪がいつごろからはじまったかは、わかりません。

髪を中央で左右に分けて毛先を折りたたんで結んだ髪型で、この髪型をした埴輪が古墳から出土しています。支配者や戦士など身分によって、この角髪の結び方が違うという説もあります。


この角髪をしたのは支配層や戦士などです。市井の人は伸ばしたままの垂れ髪だったと思われます。肩辺りで削いでいたかもしれません。また活動しやすいように後頭部で結んでポニーテールのようにしていたかもしれません。縄文時の鳥の骨と同様、棒状のものを使い、髪を絡めて結び留めていたかもしれません。


飛鳥時代になり中国の文化が入ると、日本の制度、文化は大陸の影響を強く受けます。支配層の衣服も同様です。頭は冠を乗せる文化へと移行します。冠の下は立髻を結びます。頭部全体の髪を天頂部に寄せて、細い紐でぐるぐるに巻いてつくります。硬く結び、この髷を活用して冠を固定します。

この立髻は後の丁髷の元になる髪文化です。


大陸文化が入ると女子に対しても髪を上げて結ぶように詔が出されます。飛鳥時代の絵画史料には頭頂部の左右で結んだ髪をした女性が描かれています。これが「髪上げよ」の髪型のようです。しかし、女子のこの髪型は定着しませんでした。


平安時代になり大陸との交流がなくなると、女子の髪上げの文化は廃れ、髪を床に届くほど伸ばした垂髪が平安貴族の主流になります。平安期を国風文化と称することがあります。女子の文化は奥ゆかしさにあったようです。

表情を明確にしない、心情を顕わにしない、そして顔は見せない。そんな文化です。

長い髪は、顔を隠すのに都合がいい。眉を剃り落すと表情がわからない。令和の人からすると不気味にも感じられます。お歯黒も同様です。


しかし垂髪をしたのは宮中の女房や高貴な女性だけです。市井の女性は項あたりで髪を結んだり、肩辺りの長さで髪を削いで、日々の労働がしやすいようにしていました。

垂髪をしていた高貴な女性も室町時代になり、朝廷が困窮するようになると、日常は働きやすいいように髪を短くかくし、宮中行事があるときにはかもじを足して髪を長くして行事に臨みました。

髪の毛を拾い集め、かもじをつくる、おちゃないという仕事は室町時代に誕生しました。


男性の頭部の国風文化は冠・烏帽子です。

飛鳥時代にはじまった冠を装着する文化は広く浸透し、市井の男子も烏帽子を装着するのが習わしになりました。冠・烏帽子を付けず露頂、露頭にすることは大変な恥とされ、平安時代には寝ているときも冠・烏帽子を装着するまでに浸透しました。


この冠・烏帽子の国風文化は室町時代後期まで長く続きます。

戦国時代は武士だけではなく農民ら市井の男性も巻き込んだ総力戦の戦争に明け暮れるます。戦さで兜を被るのが常態化してくると、冠・烏帽子は風習は徐々に薄れていきます。


兜を装着すると頭が蒸れます。蒸れて頭がのぼせるのを避けるために月代の風習が広まった、といいます。

頭部の髪を抜く行為は、平安時代に冠からはみ出した前髪をけっしきという毛抜きで抜いて整えていました。当初、月代は毛抜きで処理していましたが、苦痛がともなう。そこで戦国時代後期に僧侶が使う剃刀で月代を剃るようになり、月代が広まるきっかけになりました。一説には織田信長が頭部を大きく剃る大月代を推奨したことが一因といわれてます。


男子総動員の戦国時代を経て、冠・烏帽子の風習から髷・月代の露頂の風習へと変革しました。

髷は立髻から、当初は茶筅のように折らずに結っただけのもので、タボは大きく厚くしていたのが絵画史料からうかがえます。また江戸時代当初は月代は武家に多く、総髪で結う男性も少なくなかったようです。


月代・丁髷が広まったのは17世紀末から18世紀初頭にかけてです。このころになると、男子の髪型には総髪や蓬髪、坊主、がっそうなどもありましが、主流は月代・丁髷でした。


一口に月代・丁髷といっても、月代の大小の大きさ、髷の形・大きさ(太さ、長さ)、髻の取り方、タボの厚さ、鬢の厚さや形状などによって様々な丁髷のスタイルが登場し、流行り廃っています。


月代・丁髷は明治になっていわゆる断髪令が出ると終焉を迎えます。断髪令がでてもすぐにザンギリの洋髪に変わったわけではありませんが、明治20年ごろには男性の多くは西洋風の髪型になります。

そして、令和のいまに続きます。この間、いろいろな流行・廃れはあり、現在も進行形で様々な髪型が登場しています。



一方、女性は江戸時代前期までは垂髪の流れでしたが、17世紀後半になると日本髪が登場します。

日本髪は男髷から派生した島田、丸髷の系統、大陸の輪髷の系統(兵庫髷)、日本古来からの笄髷に分けられます。

島田、丸髷の系統は男髷の元結で結んだ一の髷、髷先の二の髷を大きく膨らませて作ります。兵庫髷は髻から輪を作ります。笄髷は、のちにいろいろな髪型が登場しますが基本は笄に髪を巻き付け留める髪型です。


また日本髪は、頭部を前髪、鬢、髷、タボの5つにセクション分けして造形するのが基本です。男髷も同様5セクションで造形しますが、女性の日本髪はより明確にセクション分けして、それぞれのセクションの造形を組合せて全体の造形を作り出すという性格が強い。それが日本髪の特徴といえます。


以上の系統がある日本髪ですが、些少な違いからさまざまな名称の日本髪が次から次へと生まれています。さらに同じ髪型が地域によって別の名称で呼ばれたりします。


江戸時代中期には、女性の髪を結う女髪結が活躍しはじめます。

歌舞伎の女形の人気の日本髪を主に遊女相手に結うようになります。日本髪が市井の女性に行われるようになるのは江戸時代後期、文化文政期以降のことです。


市井の女性の多くは自前で髪を結うのが江戸時代を通じての習わしでした。

大半は簡単に髪をまとめる、遊女がした笄髷とは別物の笄一本で髪をまとめる笄髷や達磨返しのような髪をしていました。女髪結が結うような厚みのある華やいだ日本髪に結える人はまずいません。


男性は明治維新が画期となり髪風俗は変革しましたが、女性の日本髪は明治維新後、女髪結の仕事が公許されてから盛隆します。明治中期には不経済、不衛生などと日本髪の排斥運動がおこり、束髪という和髪が提唱されます。束髪やのちの庇髪などは日本髪の5セクション分けするという構造にはなっていませんが、日本髪の亜流ともいえる髪型です。日本髪ではありませんが、束髪、庇髪、さらに日本髪をあわせて和髪と称することもあります。

明治期になっても自前で結う女性は少なくありませんでした。しかし、プロである女髪結の仕事にはかないません。おしゃれな女性や市井の女性でもハレの日にはプロの女髪結に結ってもらいました。


女性の髪型が洋髪に変革するのは、昭和になってからです。大正時代にモガといわれる洋風のスタイルをした女性が登場して耳目を集めますが、極く限られた存在でした。

大正時代から女性の洋装志向は徐々に広まります。

まず服装です。洋服の仕立てを指導する洋装学校に学ぶ女性が増え、さらに昭和になると白粉だけだったメイクからファンデーションが生産されるようになりメイクが洋風になります。そして昭和10年代になると国産のパーマネントウエーブ機が開発され、パーマをする女性が増えます。


日本が戦争している時代に若い女性の洋装化は進み、洋髪が普及します。背景には欧米の映画の影響が強くありました。同時に国民総動員の戦争下、生産活動に動員された女性にとって洋装は活動しやすい。そんな背景もあったようです。


戦時体制のもと、電髪は禁止されましたが、それに代わる木炭パーマをするために、配給物資の木炭を隠し持って美容室を訪れる女性は少なくありませんでした。


戦後、日本髪に代わりパーマヘアの洋髪が女性の主流になります。昭和20年代後半にコールドパーマが開発されるといっそう普及します。30年代はパーマの時代ともいえるほどパーマネントが普及します。女髪結からパーマ屋さんへと業容も変容します。


昭和30年代まではパーマ主流でしたが、40年代になると女性のショートカットが流行りカット&ブローに徐々に移行します。ヴィダル・サスーンらによるブラントカットの開発が大きいといわれています。


戦前までは男性と女性とでは別々の道を歩んできた髪文化ですが、女性が洋髪化した戦後は、髪型における男女の別は基本的になくなっています。

ざっくりと日本人の髪型の変遷をみてきましたが、その特徴として次の二点が挙げられます。


日本の髪型文化は、大陸の影響が大きい

冠下の立髻は、後の男性の丁髷、女性の日本髪へと変化しました。丁髷、日本髪は日本独自の髪文化といえますが、大もとをたどれば大陸に行き着きます。これは髪だけに限らず、衣紋や家屋、絵画などの他の文化にも共通しています。


戦争の影響が大きい

冠・烏帽子の風習から月代・丁髷の髪文化に変遷したのは、多く人々が参戦した戦国の時代が長く続いたことが大きく影響しました。また女性の洋髪も日中戦争・太平洋戦争で女性が社会的進出が影響した、といえます。


世界的には、第一次世界大戦で欧州の女性はロングヘアをやめ短くしたのがしられています。また男性が髭を剃る習慣になったのは、毒ガス用マスク着用のために髭を剃るようになったのがきっかけといわれています。

国民総動員の大戦は、生活様式を変える威力があります。


そして、髪文化が変わるのには四半世紀くらいの時間が必要です。一朝一夕には変わりません。おそらく他の生活文化も同様かと思われます。


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