2024-05-03

セルフ、専属理美容師、大多数は理美容室を利用

 理美容という仕事はいつ始まったのでしょうか?

髪を梳き整え、ときには切る行為は、太古のむかしはセルフ、もしくは家族間で行っていたと推察されますが、これは身内への世話で、金銭や対価をともなう仕事とはいえません。


理美容の仕事以外にも洗濯クリーニング、入浴などのいまの生活衛生サービス業に分類される職種は、もともとは家族への世話(ケア)として行っていたと考えられます。食事なども同様です。


狩猟をしながら移動して生活する太古の時代から、農耕がはじまり集住するようになり集団で生活するようになると、権力者や富裕者が生まれます。日本では縄文時代末から弥生時代には支配者(もしくは支配的な立場の人)と従属者が発生します。このような階級的な社会になると、従属者の一部が支配者の要求に応え、身の回りの世話をするようになり、支配者の髪の手入れを専門にする人が誕生したものと想像できます。髪の手入れ以外にも食事や衣服など身の回りの世話をする従属者がいたはずです。


支配者の身の回りを世話を専門にする人は、支配者に信頼された、支配者に近い人たちです。紀元前の古バビロニア時代には王侯の髪をと整える貴族がいました。仏陀の髪を整えたとされるユーパリは高僧の一人とされています。


日本でも飛鳥、奈良時代に天皇の髪を整えていたのは高貴な人だったはずです。後宮に仕える官女だったかもしれません。明治天皇が明治6年に断髪した際は、朝、後宮の女官らが結った立髻姿で外出した天皇が散髪姿になって帰ってきたことに、女官一同驚いた、という話が伝わっています。


支配者や富裕者の身近に仕えて髪を整える役割をしていた人は古くから存在しており、彼らにとっては広い意味での仕事といえるかもしれません。しかし、極めて希少な存在です。多くの人々はセルフ、もしくは家族間で行っていました。


多くの人を対象にした理美容の仕事が誕生するのは、国によって、また社会情況によって違います。

欧州では、中世キリスト教の僧侶が信者たちに心のケアとともに身体のケアをし、その一環として簡単な外科手術と髪やヒゲの手入れもしたのが、業の興りとされています。僧侶のケアから、中世末から近世にかけて外科理容師となり、その後外科医と理容師に分かれました。男性を対象にした仕事で、髪のカットと髭剃りが行われました。


米国では、黒人奴隷のなかで、従順で手先の器用な奴隷を選び、農場主が自分や家族の髪や髭の手入れをさせました。支配者と従属者の関係に似ています。腕のいい黒人は評判になり他の農場主の頭や髭をあたるようになり、そして店を構えて髪のカットと髭剃りの仕事をするになったといわれています。その後イタリア移民の理容師が増え、白人客を相手に仕事をするようになった、といわれています。


日本では戦国時代末、安土桃山時代に京の都で月代を剃り、髷を結う髪結職が登場したのが、当時の京を描いた絵画資料からわかります。江戸には17世紀はじめに髪結が現れます。

日本の場合は、飛鳥時代以前は角髪(みずら)でしたが、大陸から冠装着の風俗が伝わり、立髻(たてもとどり、冠下の髻ともいいます)の習慣に変わります。貴人はお付きの人が結ったのでしょうが、貴人以外は家族、身内で結っていたはずでです。セルフでもできなくはない。


冠・烏帽子の風俗が長く続きましたが、戦国時代になって戦闘で兜を被るようになると、装着時に頭の蒸れを防ぐために月代が行われるようになりました。大きな毛抜きでセルフで処理することもありましたが、苦痛をともないます。月代を剃る風習に移行します。日本の戦国時代は、農民も戦場に駆り出された総力戦で、月代文化が広く普及しました。


立髻はじめ月代をしない髷はセルフでもできますが、月代はセルフでは切傷を負いやすい。家族なら妻が夫や息子の月代を剃りましたが、単身男性は難しい。髪結職人に頼ることになります。


日本で一般人相手の髪仕事が興ったのは中世末から近世にかけてで、欧州や米国とそれほど違いはありません。この時代は一般庶民の生活が豊かになった時代です。欧米・日本以外の状況も、西暦に多少のズレはあるでしょうが、同様だったのではないかと想像します。


女性の場合はどうでしょう。

太古は支配者と従属者の関係が生まれると、王妃の侍女が妃の髪の手入れしていたと考えられます。男性の場合と同じです。


一般の女性相手の髪仕事は、日本では遊郭の女性を相手に生まれました。手先が器用な年季明けの遊女が遊郭に残り、遊女の髪を結っていました。遊女は、髪を美しく結い、着飾り客に接しました。

厳密にいうと、歌舞伎で使うカツラを結うカツラ職人の妻が髪結の技を覚え、女性の髪を結うようになったのが女髪結事始めとされています。江戸では歌舞伎役者付のカツラ職人から技を学んだ甚吉という人が始まりで、遊女相手に結いました。


腕のいい女髪結は、あちこちの遊郭の遊女から声がかかり出向いて仕事をしました。やがて遊女から富裕層の女性、江戸時代後期になると客は一般女性へと広がりました。明治になって女髪結の仕事が公許されると、多くの女髪結が一般の女性宅に出向いて仕事をするようになります。


ただし、女性はセルフで髪を整えるのが習わしとされ、江戸時代になってもほぼすべての女性はセルフで結っていました。女髪結に頼ったのは、遊女、一部の富裕な女性、凝った髷をしたい女性、またはセルフでは結えない不器用な女性でした。


美容師の仕事が広く普及するのは、第二次世界大戦をはさんで、日本の女性の洋装化が進むのと軌を一にしています。

服飾の洋装化は洋裁学校の普及で広まり、映画の影響もあって赤・黒・白の和化粧から目元メイク、肌色メイクの洋化粧へと移り、髪はパーマネントウエーブによる洋髪へと変わります。服飾、メイク、ヘアがあいまって洋装化は進みます。


パーマネントウエーブはセルフではもちろん家族で行うのは不可能です。電髪といわれるパーマネント機が日本で普及したのは昭和12、3年ごろですが、以降、徐々にパーマネントウエーブは広まり昭和10年代後半は太平洋戦争末期にもかかわらず、配給品の木炭を隠し持って美容室を訪れる女性が多くいました。

そして、戦後はコールドパーマネントが開発され、美容室に行く女性が一気に増えました。


欧州では貴族や富裕層は、お抱えの専属美容師を雇って、髪を整えていました。支配者と従属者の関係に近いですが、準富裕層の女性が増え、彼女らの要望もあって、複数の得意客を抱え客宅に出向いて仕事をする美容師、さらに店を構えて美容の仕事をする美容師が現れます。欧州ではパリの美容室が最初といわれています。富裕層の女性のほか、娼婦も相手にしていたといいます。しかし富裕層、準富裕層、娼婦以外の女性はセルフでした。


欧州で一般の女性が美容室に行くようになるのは、第一次世界大戦後になってからです。第一次世界大戦は国民総動員の戦争で、徴兵された男性にかわって残された若い女性の多くが生産工場や軍需工場に動員されました。女性の髪はそれまではロングヘアでしたが、工場ではショートヘアのほうが仕事に向いていることから、ショートにするようなり、一般女性相手の美容室が流行った、といいます。


女性のショートヘア化はそれ以前にも映画女優らがしていて注目されていましたが、大戦が一つのきっかけとなって普及しました。それまでのロングヘアならセルフで対応できましたが、ショートヘアはウエーブをあしらうので、プロの美容師にやってもらったほうが美しく仕上がります。

また、マルセルアイロンやパーマネントウエーブの開発があったのも美容室の利用が増えた背景にあります。


欧州女性のショートヘア+ウエーブヘアは米国女性にも影響を与えました。日本では大正時代にモダンガールといわれる洋装女性が注目されました。ただし、日本で洋髪が流行るのは前述の通り、昭和10年代になってからです。


超がつくほど、おおざっぱに理美容の仕事の歴史について見てきました。こうして見ると、理美容の仕事は、国民総動員的な大戦の影響と新器具や用剤の開発の影響を受けて変遷しているのがわかります。


そして令和のいまはどうでしょう。

基本的には、「セルフ」、「専属」、「一般」の理美容の仕事の歴史の延長線上にあるのは変わりません。セルフは少数、専属は希少、多くは理美容室を利用しています。いまの超富裕層の専属理美容師は、金銭的には雇われていますが、むかしの支配と隷属の関係と同じではありません。ライフパートナー的な存在として働いています。

圧倒的多数の人は一般理美容室を利用していますが、その理美容室の業態、コンセプトは時代とともに変化し、また理美容師の働き方も副業、兼業、無店舗営業など多様化しています。この辺のお話はまた別の機会に。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。

明治初期 無店舗営業に移行した女髪結

 令和になって自前の店を持たずに仕事をする理美容師が増えています。フリーランスの理美容師として、シェアサロンを活用したり、業務を受託したり、施設などへの出張理美容を専門にしている人もいます。