髪結の仕事を一銭職ともいいます。『一銭職由緒書』が示す通りです。
髪結の仕事が興った当初、一銭で月代を剃り、髷を結っていたのが、一銭職の由来とされています。一銭剃り、一文剃り、と呼ぶこともあります。
江戸で一銭職が興ったのは、寛永年間(1624-43)ごろとされています。増上寺の西にある赤羽根、いまの港区・赤羽橋あたりで、布幕を張り、床板に客を座らせて仕事をしたらしい。後の出床に近い形態といえます。
一銭は明銭の永楽通宝が使われていました。永楽通宝は慶長13年(1608年)には通用禁止令が出されますが、江戸や東日本では、17世紀中ごろまで使われていて、一銭職への支払いはこの永楽通宝で済ましていたようです。
いま髪結や女髪結の仕事は理美容業として生活衛生業として括られていますが、生活衛生業の一つである浴場業は、髪結より古い歴史があります。飛鳥時代の天平年間に光明皇后が行った施湯(施薬院)は有名ですが、江戸では徳川家康が江戸入府した翌年の天正19年(1591)に銭瓶橋(*)のたもとで湯屋を始めたのが最初とされています。髪結より四半世紀以上古い。
当時の湯屋は、光明皇后の施湯と同じ蒸し風呂で、髪結が興ったころの入浴賃は1銭といわれ、髪結賃と同じでした。江戸中期ごろになると、髪結賃24文、湯屋8文が江戸の相場となりますが、江戸時代初期の江戸は同じ1文(1銭)だったようです。
髪結の仕事は湯屋とは違い一客ずつ手がかかります。同じ料金だったとは理解しがたいですが、当時の経済事情はわかりません。もしかしたら、「一銭」という言葉を「安い」という意味で使っているのもしれません。
ところで、湯屋は髪結が興った慶長のころは、湯女風呂が流行っていて、こちらは15文から20文だったそうです。
湯屋と髪結は一町一株制で、町内自治に組み込まれるなど、人々の生活に欠かせない仕事として共通しています。いま浴場業は町の銭湯は激減していますが、レジャー性のある大規模浴場施設は繁盛しています。江戸時代初期に江戸の町にあった湯女風呂は戦後になって個室付特殊浴場として復活?しています。
生活関連の職業は、いつの時代も世に連れ、です。
(*)現在:千代田区大手町2丁目6−6
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