2023-12-10

髪結床番屋 自身番を兼ねた床番人

しながわデジタルアーカイブ 

髪結床と一口にいっても場所によって、いろいろな形態があります。東海道一番目の宿場である品川宿では髪結床が自身番を兼ねていました。髪結床番屋といいます。そこに勤める髪結を床番人と称します。

品川宿の髪結床の課役を記録した書上書が「しながわデジタルアーカイブ」に掲載されているので、紹介します。


品川宿は、南品川宿、北品川宿のほかに江戸中期に誕生した徒歩新宿(かちしんしゅく)の三つの宿があり、歩行新宿の名主が代官所へ出した書上げです。その文面に

「歩行新宿三ヵ町には一ヵ所ずつの髪結床番屋があり、番人は髪結で、古来より宿内へ触れ事を伝達したり、昼夜見廻り、夜分時廻り等を勤め…」とあります。

提出したのは、江戸後期の文政四年(1821)十月です。


徒歩新宿には一丁目から三丁目までの三町があり、三町に一ヵ所ずつ髪結床番屋があったのがわかります。その職務はお触れの伝達と昼夜の町内見廻りです。


この文書はさらに、自身番を兼ねた髪結への番銭(報酬)が記述されています。

「一ヵ月表店一軒につき銭二〇文を徴収し、ほかに宿内の惣家持百姓から給分として、一丁目番人へ一ヵ月銭一貫五八文、二丁目番人へ銭一貫二二〇文、三丁目番人へ一貫三〇四文ずつを出している」


髪結の仕事で収入を得たほか自身番の仕事でも収入を得ていました。丁で番銭が異なるのは丁の規模の違いからきているようです。この違いは床屋株の冥加金にも現れています。


文政四年の書上げに「古来より」とあるのは、明和七年(1770)の歩行新宿一丁目の床番人与八の答申書にあり、「しながわデジタルアーカイブ」は与八の答申書も掲載しています。


「私の勤方は年中一丁目の町内を見廻りすることで、番銭として一ヵ月に家持方より一軒につき二六文、表店より二〇文、裏店より一二文ずつ受け取っている。その外御玄関(名主宅)御用が多く、定使で間に合わないときに、使い役や、御触書の持ち廻り等を勤めている」


番銭料に違いはあるものの仕事はほぼ同じです。品川宿の徒歩新宿では江戸中期には髪結床が自身番を兼ねていたのが、「しながわデジタルアーカイブ」からわかります。


髪結床番屋は徒歩新宿だけの特異な例なのか、他の品川宿も同様だったのかはわかりません。宿場町は町奉行ではなく、道中奉行の采配になるので東海道はじめ五街道の宿場で統一されていたのかもしれませんが、不明です。


江戸府中の髪結床は、自身番の近くに設置されることが多く、自身番と協力して町の警備、保安を担っていました。そんな髪結床の課役を踏まえての品川宿の髪結床番屋かと思われます。


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