2023-10-04

岩倉具視の髷は、冠下の髻

 江戸時代の髷は日本人独自の髪風俗であり、文化の一つです。しかし、髷をはじめて見た欧米人には奇異に映ったのは間違いありません。

明治4年(1871年)11月から明治6年9月にかけて米国欧州を巡った岩倉使節団の正使、岩倉具視は当初、髷姿でした。写真は、左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通です。



岩倉の髷は立髻です。江戸時代に普及していた丁髷とは違います。冠下の髻ともいう髷で、冠を装着するのを前提としたものです。


冠は飛鳥・奈良時代に大陸から入ってきた装束文化で、以降、平安時代、鎌倉時代、室町時代まで受け継がれます。冠または烏帽子の装着が男子の装束とされていました。冠の下は立髻に結っていました。戦乱の時代を経て、冠・烏帽子の装着は薄れ、立髻から丁髷・月代の時代へと移ろいます。


立髻にした岩倉は、おそらく冠も用意し日本の正使として、伝統的な正装をして諸外国の代表者と対峙し、不平等条約の改正に臨もうとしたのではないでしょうか。

江戸時代、丁髷が男子の髪風俗としてひろく行われますが、朝廷の殿上人は立髻にしていたのが、この写真からうかがえます。また、鎌倉時代ごろまでは露頂を避け、冠や烏帽子を常時装着するのが習いでしたが、写真の岩倉は露頂です。戦国時代、江戸時代を経て露頂を避ける風習はなくなったようです。


岩倉使節団の前にも、万延元年遣米使節(1860年)、文久遣欧使節(1862年と1863年の2回)など幕府の使節団が欧米を訪れていますが、いずれの使節団も現地で大勢の人から歓迎された、と参加した団員らが報告しています。岩倉使節団も上陸した米国で大歓迎を受けました。


岩倉も大喜びしましたが、前年から米国に留学していた岩倉の三男・岩倉具定から、使節団の風俗、とくに髷がもの珍しくて見物しに大勢の人が集まっているだけだ、と知らされます。現地の人にとって髷は風変わりで珍奇でした。そんな一風変わった風俗をした異国の一団を見物しに集まっているのであって、決して大歓迎しているわけではないのを知った岩倉はシカゴで断髪しました。


岩倉の立髻はピストルを頭に乗せたようだ、と揶揄されました。銃身を頭の上に乗せたように見えたのかもしれません。万延や文久の使節団は団員のほとんどが丁髷姿でしたが、丁髷は動物の尻尾のようだと揶揄されたといいます。豚の尻尾のようだといわれたのは、本多髷を見た人がいったのかもしれません。

欧米人にとって物珍しい髷は嘲笑の対象でした。


明治政府は、欧米人の嘲笑の対象となっている髷は、日本の非文化的な習俗の象徴であって、外国と平等に渡り合うためにも断髪を熱心に奨励したのでした。


写真・下は、断髪姿の岩倉具視です。岩倉が断髪したのは、シカゴに滞在していた明治5年4月末ごろと思われます。この写真が断髪直後に撮影したのかは不明です。


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