2023-09-19

月代のはじまり

 月代のはじまりは、平安時代のなかごろではないかと思われますが、はっきりとした史料があるわけではありません。

公家の九条兼実の日記『玉葉』に平家の平時忠が宮中に出仕した時の月代についての記述があります。安元2年(1176)の日記です。

「自件簾中、時忠卿指出首、其鬢不正、月代太見苦、面色殊損」

月代が大変見苦しかった(月代太見苦)と書き残しています。


この記述は、おそらく月代に関しては初見のようで、月代をテーマにした文章によく紹介されています。1176年といえば平安後期です。その当時、武家はすでに月代をしていたと考えられます。


月代は、戦闘時に頭部が蒸れてのぼせるをを防ぐためにした、という説が有力です。

平安の時代、男子は烏帽子や冠を被っていました。武家も平時は立髻にして烏帽子を装着していましたが、戦時は髻の元結を切り、ザンバラ髪にして兜を被って戦場に臨みました。鉄製の兜で、風通しの穴は開けてあったそうです。頭頂部に手ぬぐいなどをはさんで兜を被っていましたが、それでも蒸れます。戦場で頭が蒸れて、のぼせあがった状態ではまともに戦えません。そこで、蒸れを防ぐために月代にしたというのです。


古い兜は、頭頂部に大きめな穴があけ、そこから立髻を包んだ烏帽子を出して、兜を固定したといいます。冠の巾子(こじ)に立髻を収め、巾子と立髻を笄で貫通させ固定したのに近い発想のようです。ですが、これでは兜を十分に固定できなかったか、もしくは何か不都合があったらしく廃れてしまいました。


平安時代は後の時代ほど戦乱はありませんが、それでも平忠常の乱(1028年、長元元年)や前九年合戦(1051年、康平5年)、後三年合戦(1083年、永保3年)、源義親の乱(1107年、嘉承2年)、さらに保元の乱(1156年、保元元年)、平治の乱(1159年、平治元年)などが起こっています。

合戦や乱以外にも、寺社の強訴や海賊の征伐などに際して武家は出動したはずです。


月代は、いつからするようになったかたは、はっきりしませんが、これらの戦乱を通じて、徐々に武士に広まっていったと考えられます。


平時は総髪立髻で武官用の冠や烏帽子を装着して過ごし、臨戦時になると月代にしていました。常時、月代になるのは戦乱が続いた戦国時代になってからです。そのころは立髻も廃れ、兜を装着しやすい、たぶさ髷や茶筅だったと思われます。そして、髷を二つに折る丁髷は戦乱も治まってからのことです。それも立髻からすぐに丁髷に移行したのではなく、いろいろな試行錯誤があって丁髷に落ち着いたのだと想像します。おそらく、その時代の日本人の美意識にあった髪姿だったのでしょう。


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