2023-06-08

国産電髪機の開発と普及

 パーマネント小史 2

電髪が日本で流行るのは国産の電髪機が製造販売されるようになってからです。

電髪の国産初号機には諸説ありますが、昭和9年が有力なようです。

電熱による加温機能をもとに、温度調節機能とタイマー機能を備えた比較的簡単な装置なので、複数の会社が製造販売しました。国産電髪機は舶来品とは比較にならないほど安価で提供されたので、昭和10年以降、導入する美容室が増えました。


電髪でパーマをかける女性が増えた背景には、女性の洋装化があります。

日本女性の洋装化は明治時代後期に洋裁学校が開校し、以降大正期に徐々に増えていきます。まだ和装が主流でしたが、昭和になると各地に洋裁学校が開校されるようになり、洋服を手にしやすくなりました。

また化粧も日本古来の白・黒・赤を基調とした和化粧から、大正期になると肌色の洋化粧が注目され、とくに映画女優らの目元の化粧が浸透していきます。

国産電髪機が普及し始めた昭和10年ごろは、洋装・洋化粧が受け入れられる時代になっていました。洋装・洋化粧・洋髪の3要素がそろっての洋装化といえます。


時代は戦時体制下です。

女性も防災の訓練に参加したり、後には生産活動に動員されるようになると、和装よりも活動しやすい洋装をする女性が増えたのは想像できます。第一次世界大戦で欧米の女性がとった行動に共通しています。国民総動員の大戦はいろいろなところに影響を与えますが、女性をより活動的にさせます。それが服飾、生活をも変える。


また、髪仕事の業界も女髪結の時代から電髪パーマネントの美容の時代へと変遷するのが昭和10年代から戦後にかけてになります。

女髪結は江戸時代中ごろに誕生し後期には普及した職業ですが、女髪結の仕事そのものは華美を禁止する幕府によって禁制とされていました。明治維新後、公許されると女性の職業として急速に増えたのです。明治18年(1885)に婦人束髪会によって束髪が流行るなるなど、髪型の変遷はあるものの明治期、大正期、昭和期の戦後しばらくまでは女髪結のl仕事が続きました。


戦時体制下の昭和12年、電髪機の普及が進むなか、電髪を営業する業界団体が自らパーマネント自粛を打ち出します。「自粛ロール巻き」という髪型を提唱し、自粛の姿勢を打ち出すことで存続を図る狙いがあったようです。また昭和15年には「美容報国号」と名付けたゼロ戦を軍に寄贈しましたが、これも同様の意図があります。

電力の供給が懸念されるようになると、昭和13年には電力の代わりに木炭を利用して加熱する木炭パーマが登場しました。


昭和14年(1939)に国民精神総動員本部が、パーマネント禁止などの生活刷新案をまとめました。これを受けて、電髪の業界団体は禁止のパーマネントに変わる名称を模索した結果、翌年にいくつかの名称が考え出されました。その中の一つが電髪です。パーマネントがだめなら電髪で、というわけです。単なる言葉遊びのようにも思えますが、これが奏功してパーマネントは電髪として生き残ります。

パーマネント禁止とともに学生の長髪も禁止されました。その結果、多くの学生は丸刈りにしました。パーマネント禁止でなく、ウエーブ、カール、縮髪禁止とすればまた違ったかもしれません。


「パーマネントはやめませう」という標語が登場したのも昭和14年です。美容室の前で子供らが「パーマネントはやめませう」と合唱したといいます。これも時世の流れといえそうですが、戦後、髪結の子が率先して美容室の前で合唱していた、という話を聞くと、また違った意味合いになります。興隆する電髪に対抗する髪結の構図が浮かび上がります。

昭和14年には、電髪業者らが組織して大日本電髪理容連盟が発足しています。活動内容の詳細は不詳ですが、業の存続を目的の一つにした組織なのは想像できます。


電髪が実際に規制を受けるようになったのは、昭和16年に配電統制令が出されてからです。電力規制は府県によって対応が違いました。業者は電力規制日を休業にしましたが、休業日が月曜の地域があれば火曜日の地域もあり、それが後の美容室の定休日につながったといわれます。

昭和15年、東京府は木炭を切符制にしました。他府県も同様の動きがありました。

昭和17年、ミッドウエー海戦で敗れ、戦局も厳しくなるさなか、配給品の木炭を隠し持って美容室を訪れる女性客が多数いて、当時の新聞は非難の論調で報道しています。非国民視されながらも、おしゃれが大切な女性がいたのは事実です。


鉄製品の供出が強要され、美容室の電髪機も対象になりました。それまでの業界あげての報国の姿勢が評価されたのかはわかりませんが、せべての電髪機の供出は免れたといいます。その結果、配給品の木炭で加熱し、ホウ砂は入手しやすいので、電髪の営業は細々とながら続けることができ、終戦を迎えることになりました。

電髪機の供出の話には後日談があって、戦後、供出したはずの電髪機が大量に出回ったといいます。電髪機を集めた輩が国に渡さずに、どこかに隠匿していたらしい。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。

セルフ、専属理美容師、大多数は理美容室を利用

 理美容という仕事はいつ始まったのでしょうか?