2023-03-12

明治14年 散髪・結髪は半々

 明治14年ごろの散髪(洋髪)と結髪(丁髷)の比率は半々でした。

『明治事物起源』に「日本全国大概見積」を引用して

「結髪 五部、散髪 五部」とあります。


「日本全国大概見積」は明治14年刊の『日本自慢』に掲載され、一項目とされています。この『日本自慢』は、国立国会図書館デジタルコレクションに保存されていますが、何篇かあるらしく、初編、二編には「日本全国大概見積」は見当たりません。


当時の風俗について、大規模に調査したことはなく、『日本自慢』の著者である保田信親さんの個人的な見積でしょうが、「結髪 五部、散髪 五部」の比率は大雑把ながら、的外れではないように思えます。


明治20年ごろになると大半の男性は散髪にしたといわれてます。

明治14年ごろは、東京や京都、大坂の都会地は7,8割ほど、農村部では2,3割ほどが散髪だったと思われます。散髪の進み具合は土地によって早い遅いがあり、都会地は早く、農村部は遅いと考えられます。都会地でも、東京、大坂より京都の散髪は一足早かったといわれてます。


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