竹原五郎吉は、松本貞吉、小倉虎吉、原徳之助らとともに、幕末の横浜で外国船に乗り込んで西洋理髪を習得した人として知られています。
その竹原五郎吉は東京の加藤虎吉に招かれて理髪の仕事をしています。
「料金25銭で斬髪を始めたが、門前市をなす盛況であった」と『日本結髪全史』(江馬務・著)は書いています。加藤虎吉の店は、日本橋の海運橋際にあったとしています。同著は『明治事物起源』(石井研堂・著)からの引用と記しているので、海運橋際の加藤虎吉の店は「二階床」です。この店が東京での「理髪業の率先であった」と書いています。
『明治事物起源』は、竹原五郎吉の腕を見込んで、日本橋本町の髪結床「庄司」の庄司辰五郎が高額報酬で自分の店に誘ったところ「庄司」は大繁盛し、「二階床」はさびれたと書いています。「庄司」はもともとは髪結床でしたが、西洋理髪の店として生まれ変わり、その後も理髪の名店としてしばしば文献に登場します。
日本橋川をはさんで「庄司」の反対側に川名浪吉の店があり、五郎吉が「庄司」で働くようになると、客を奪われ影響を受けましたが、川名は「庄司」より高額の9円の報酬で五郎吉を引き抜くと、川名の店は「旭日の如き隆盛を来たし」と『明治事物起源』は書いています。
竹原五郎吉は凄腕、理髪名人だったようですが、考えてみれば当時はまだ西洋理髪を習得した職人は希少で、東京では彼が初めての理髪職人だったのかもしれません。今回の話題のはっきりした年代は不詳ですが、話の内容からして明治4年の断髪令前後(前の可能性が高い)のことかと思われます。
断髪が一般に普及するのは明治6年に明治天皇が断髪してからとされてますが、西洋文明の進取に積極的な男子は少なからずいました。
*明治初期は、斬髪、散切、剪髪などの言葉が多く使われていましたが、ここでは理髪としています
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