2023-02-01

根来合惣(ねごろ がっそう)

 徳川幕府に仕える武士のすべてが月代・丁髷姿をしていたわけではありません。百人組の一つ根来組は、総髪が認められてたといいます。

幕末、根来組に勤めていた、小説家の塚原渋柿園という人が明治後期に書いた『思ひ出る儘の記』という著作に

「予が根来組の同心は皆総髪」とあります(『幕末の江戸風俗』塚原渋柿園・著、菊池眞一・編/岩波文庫、に収録)

さらにカッコ書きで、

「根来合惣(がっそう)と人は言えり、思うに山伏の形にてもあるべし。ただし与力は尋常の野郎頭なり」

と説明しています。(一部、現在表記にかえてあります)

根来組だった本人が書いたのだから、信頼性は高い。


根来組は、根来寺を拠点に戦国時代に活躍した僧兵軍団の一つでした。小牧長久手の戦いで徳川側に協力し、畿内で戦乱を起こし豊臣側の軍勢を削いだのですが、徳川・豊臣停戦後に豊臣軍に滅ぼされます。関ケ原の合戦で徳川が天下をとると、小牧長久手の戦いでの功績が認められて、100人組として禄を貰うことになりました。与力20騎、同心100人で構成されていたそうです。江戸城の重要な門を警備する番役で、江戸時代を通じての任務でした。

以上は、同著によります。


根来組の同心は総髪をしていた、とありますが、総髪にもいろいろあります。

江戸時代の髪型は身分や職業に関連してことが多い。総髪といっても、学者、兵法家、剣術の師範、医者、売卜者(占師)、非人、賎職者によって違います。兵法家は肩まで長く、医者は総髪後ろなでつけ、といった具合です。


このほかにも、山伏の修験者、虚無僧、願人坊主、同心坊などの宗教関係者も月代をせずに髪を伸ばしていましたが、前述の総髪とは違い短くしていたようです。角刈りの出来損ないの毬栗頭のイメージに近い。同心坊は『日本結髪全史』(江馬務・著)に出てくる言葉ですが、この同心坊については他書にもネットで検索してもでてこないので、詳細は不詳です。


『思ひ出る儘の記』に、根来組同心の総髪を人は「根来合惣」と呼んでいたとあります。

「合惣」とは「兀僧」(がっそう)からきている言葉のようです。「兀」という字には、高いという意味があり、坊主頭を剃らずに伸ばしたままにして、頭が一段高く見える状態をいうのかもしれません。やはり毬栗頭に近そうです。


根来寺の僧兵集団だった根来組同心を同心坊と称したのかもしれません。


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