2023-02-15

断髪令

 通称「断髪令」といわれる太政官布告は明治4年8月9日に発布されました。「散髪、制服、略服、礼服ノ外、脱刀モ自今勝手タルベシ」という内容で、「散髪脱刀令」ともいわれています。

断髪令というと断髪を命じた、強制的な意味合いが強いようにとられますが、実際は「勝手タルベシ」とあるように「断髪してもいいですよ」と断髪を認めたに過ぎません。


当時の男性の頭容は、さまざまだったのが、『明治事物起源』からわかります。

幕末ごろから洋式の訓練を受けた武士はいち早く断髪にする人が多く、また維新後は海外に渡航した政府の要人も断髪にしていました。活動するのに断髪は合理的で、海外では丁髷が奇異に見られたからです。幕末、明治維新前後にかけて断髪、洋装の男性は徐々に増えていました。


しかし多くの男性は半髪といわれる丁髷姿でした。総髪髷姿、総髪なでつけ、坊主、いがぐり頭の願人坊主、など、百人百色だったと『明治事物起源』といってます。

維新後も半髪の髷姿の役人が多くいましたが、なかには断髪の人もいたらしい。

明治2年に紀州和歌山藩の公用人(役人)が、弁事官に対し「文官武官とも薙髪で勤めても差し支えないでしょうか?」と照会しています。当時の民部省(後の内務省)の弁事官への伺いだと思われます。

弁事官からの回答は「追って規則を作るまでは、これまで通りと心得てください」としている。

薙髪というのは総髪なでつけのことで、断髪の一つです。

規則というのが、断髪令になります。


幕末に断髪した人は、尊王攘夷派から襲われるのを恐れていましたし、維新後も断髪頭に批判的だった人は少なくありませんでした。前述の紀州和歌山藩からの照会も薙髪での出仕を止めさせたい意図があったと思われます。


しかし明治政府の多くの要人は海外渡航を経験しており、断髪の必要性を認識していました。一つは外国人との関係であり、一つは身分制度の打破であり、将来の国民皆兵への布石があったように思われます。本来なら、断髪を強制したかったのでしょうが、当時の断髪頭に批判的な民意を配慮して、「勝手タルベシ」にとどめたようです。


断髪令を発令後、明治政府、とくに木戸孝允は熱心に断髪を促進する活動をします。その一つが木戸が出資して創刊した『新聞雑誌』で断髪の宣伝を展開します。

有名な「ジャンギリ頭をたたいて見れば文明開化の音がする」は、『新聞雑誌』に掲載された俗謡とされていますが、一説には木戸が作ったといわれています。

ジャンギリ頭の前に

「半頭頭をたたいて見れば因循姑息の音がする」

「総髪頭をたたいて見れば王政復古の音がする」

があります。

半頭とは月代丁髷頭です。総髪は総髪丁髷のことです。


断髪令発令後の頭容の状況はどうかというと、これが県によって差があります。

『明治事物起源』によると、京都府や滋賀県、愛知県では断髪をする人が多くいたといいます。当時の内務省から任命された県令(知事)によって、断髪に対する取り組みは違っていました。半髪をしている人に税金を課したり、巡査が見つけて半ば断髪を強要したりする県では断髪がすすみましたが、そうでない県もあります。


『明治事物起源』では一例として、断髪に熱心だった愛知県の隣県の岐阜県の例を紹介しています。長谷部という県令で、愛知県同様半髪に税を課すよう打診があった際、「開化は人の心にあるもので、これを実現するには学校を盛大にすることが急務であり、頭髪のような外貌は問わない」と答えたといいます。この県令、日本三県令の一人といわれた名県令だったというのも頷けます。


断髪については明治天皇の断髪後、急速に普及したとされていますが、明治10年ごろにはいったん断髪した人が再び半髪に戻る、揺り戻しがあったことが『明治事物起源』に紹介されてます。

一度慣れ親しんだ風俗はそう簡単には変えることができない人が多い。


明治11年に日本を旅したイザベル・バードの『日本奥地紀行』では、田舎では半髪がほとんで髪結床が営業した風景が描写されています。

文明開化のシンボル的な存在として歴史に刻まれた断髪令ですが、断髪が日本に定着するのは明治20年ごろといわれています。


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