いまのランキングに近いのが番付といえます。
『明治事物起源』の著者・石井研堂さんは番付について、「その本質はずさんなり、低級なり」と評価は芳しくありませんが、「砂を除いて砂金を得る」の譬えを引いて、中には金のように価値のあるものもあるといってます。
「明治事物番付精華」の項は石井研堂さんが選りすぐった金の価値ある番付のようです。
実際には、番付以外にも都都逸や俗謡などが含まれますが、その中から髪に関するものを。
丸の内 辻番の髪結床
「当世武家地商人」(年代不詳)より。明治維新後の武家地に多く見られる商売、商人の番付です。番付は「行事勧進元」の「元」の位です。このあとに「大関」「関脇」「小結」と続きます。「行事勧進元」は別格扱いといえます。
丸の内といえば、武家地でも大名屋敷が建ち並ぶ一等地です。交差点にあった辻番の場所に髪結床が多くあり目立ったのでしょう。
「当時盛衰左右会合」<第1段>(明治5年、大坂版)には、「盛の方」の前頭3枚目に「じゃんぎりあたま」があります。同じく<第2段>には、「衰の方」の前頭7枚目に「髪結床の毛そり」が見られます。
「当時流行見立相撲」(明治4年ごろと石井研堂さんは推測しています)には「小結」に「かみ結床のアル平棒」、前頭に「ざんぎりの横なで 大将まげの紫紐」があります。
アル平棒はアルヘイ棒、赤白青のサインポールのことです。当時はアルヘイ棒とよんでいました。上に擬宝珠のようなものを付け、斜めに赤白青の横しまを入れた、このアル平棒が目立ち始めたころかもしれません。
ザンギリ頭の人もいれば、丁髷の元結に紫色の紐を用いて結った人もいたようです。
「ものはづくし」(明治10年『盛衰一覧』)。
狭いもの 彰義隊の月代
盛んなるもの 蓄髪の和尚
衰えたるもの 坊主頭の医者
戊辰戦争での彰義隊は、月代を狭く剃った、いわゆる講武所風の髷を結っていた隊士が多くいました。
断髪令後は、髪を伸ばした和尚が増えた?
江戸時代の町医者は坊主頭か総髪なでつけでしたが、坊主頭の医者はほとんどいなくなったようです。
「社会見立て」(明治8年ごろ、『員較名物表』)
いてふほんだに奴もやめて皆一様の 斬髪あたま
「七変化」のなかにある都都逸の一種でしょうか?
銀杏本多に奴髷はともに江戸時代に一世を風靡した男髷。本多髷は江戸時代中期に大流行した髷で八本多など各種本多髷が登場しました。奴髷は月代を大きく剃った大月代に小ぶりな髷です。江戸時代前期に流行りました。そのころは髭を蓄えた奴が多くみられます。
これら江戸時代に流行した髷をやめて皆が一様にザンギリ頭をしている様を「社会見立」したようです。
江戸から明治の変革期、社会、風俗の変化を映した番付にはさまざまな事象が取り上げれていますが、その中に髪結から西洋理髪へと変化した髪仕事、頭容も上位に登場しています。たかが頭容の変化とはいえ、人々の生活に密着しているだけに、注目度は高いのが番付からわかります。
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