2022-12-04

理容業・美容業の組合と行政

 髪仕事の理容業・美容業は、令和のいまは生活衛生業に含まれ厚生労働省が所管しています。

生活衛生業には、理容業・美容業とともに浴場や飲食業など16業種が含まれます。これらの業をいまは生活衛生業と呼んでますが、昭和の時代は環境衛生業と呼んでいた時期もありました。

生活衛生業が厚生労働省の所管になったのは戦後のことで、当時は厚生省でした。

敗戦後、内務省が解体されたのにともないこれらの業種は厚生省に移管されました。


明治の時代から内務省内の警視庁や道府県の警察が生活衛生業を所管していました。明治の時代から、といっても内務省が開庁したのは明治7年なので、それ以降のことになります。明治10年代になってからで、それまでは、江戸時代の延長線と考えるのが妥当のようです。


明治維新後、欧風化を目指す新政府によって、男性は断髪が推奨されたのにともない、髪結床は西洋理髪へと変わりました。江戸時代は幕府によって禁止されていた、女性相手の女髪結は公許になるなど、髪仕事は一大変革期を迎えました。髪結や理髪師、女髪結に対し明治政府がどのように関与していたかは史料がないので、わかりません。


公許された女髪結は増え、また江戸時代は一町一株制などで開業が抑制されていた髪結床も増えたのは想像にかたくありません。数が増えると料金が下がります。そこで業者は地域ごとに自主的に仕事仲間を結び、仕事の防衛をはかりました。

同業者で組合仲間を結ぶのは江戸時代からの習わしで、組合と徒弟制度で仕事を守っていました。


明治維新後も組合仲間で料金協定などを取り決めたり、新たな業者の参入を防いだり、また組合への強制加入を求めて為政者に働きかけました。同業者を束ねる顔役を中心に地域ごとに活動していたと思われます。もちろん地域によって結束の強さ、活動内容は違っていました。


明治維新後、新政府が生衛業でとくに力を入れて指導したのは浴場業です。浴場は男女混浴の風習が残っていて、風紀上の問題から浴槽を男女別にするようにしました。いまでは考えられませんが、裸体観がいまとまったく違っていて、混浴が普通でした。欧米諸国からひんしゅくをかってのことです。


また一部の旅館、飲食もやはり風紀上の問題から指導を受けました。さらに浴場、旅館、飲食は火を使う仕事で、火災の発生が懸念されることから建物の構造などを含め防火の指導を受けました。


これに対し理髪は、業者の指導よりも一般男性に髷姿をやめ断髪をするよう指導したことが当時の新聞記事などからうかがえます。地域によって温度差はありますが、無理やり髷を切ったり、髷に税金をかけたり、といった具合です。


明治10年代になると各地に警察署、派出所などが設置されるようになり、理髪、女髪結の業者は、すべてではありませんが警察署単位でまとまり組合を結成して、前述の活動をしていました。ただし、これも地域差が大きく、おそらくまとめ役の力量にもよって活動に違いがあったと思われます。まとめ役が不在な地区では業者が乱立していた可能性が高い。


なにしろ髪仕事は、腕さえあれば誰でもでき、しかも他業に比べ経費がかからないいい仕事です。いつ時代も放っておけば供給過剰になる業種です。


警察が髪仕事に関与するようになるのは、明治20年代後半から30年代にかけてです。

戦前までの警察はいまの警察と違い、警邏や保安など以外にも衛生分野も担当していました。

明治18年に「婦人束髪会」が設立され、髪結の不衛生ぶりを喧伝したのが影響したものと考えられます。同会の活動そのものは短期間で終わりましたが、当時のメディアに頻繁に取り上げられ、各地で講演会を催すなど活発に活動しました。警察は衛生面から髪仕事の女髪結、理髪の取締りに乗り出しました。


明治30年代に入ると警察の指導で組合の結成が促されるようになります。これは組合を通じて指導するのが効率的だったためと思われます。為政者が業者を組織させ、組織を通じて為政に協力させるのは江戸時代には普通に行われていました。


明治32年に器具消毒実施法を警視庁が通達し、組合規約に加えるよう指導します。明治34年には「理髪営業取締規則」(警視庁警視令)が発出され、理髪、女髪結、美容術(いまの美容)の髪仕事を届出営業制にするとともに、消毒液製法取扱いを告諭します。


戦前の警察は、東京府に置かれた警視庁は内務省の直轄でしたが、他は府や県の知事の下に置かれていたため、府県によって理髪や女髪結への対応に違いがありました。ただ、内務省直轄の警視庁の動向を踏まえて施政する警察が多かった。ちなみに各府県の警察本部長は、府県知事と同様に内務省から派遣された役人がつとめていました。


最初に理髪師試験を行なったのは大阪府で、大正8年のことです。東京の警視庁が行ったのは昭和5年になります。このとき「理容術営業取締規則」の改正が行われ、試験の導入と同時に営業の届出制から免許制にするとともに、営業所の衛生措置規定などが盛り込まれました。

理容術という言葉には理髪、女髪結、美容が含まれ、すべての髪仕事が対象です。


試験制度、営業免許制の目的は、髪仕事における衛生の担保にあるのはいうまでもありません。しかし、それ以外にも新規参入者を抑制するという一面もあります。これは組合が願っていたことでもあり、明治維新後、組合が長年にわたり熱心に要望していたことがようやく実現した、といえます。


東京警視庁が試験制度を行うと各府県でも導入がすすみ、終戦時には33の府県が試験を実施していました。内容は試験制度も営業免許制も基本的なところは同じですが、試験内容や効力などについては、府県によって差があります。


戦後になると前述の通り、内務省が解体され、生活衛生業は厚生省の所管に移されます。いち早く、業法ができたのは髪仕事の理容師法でした。昭和22年になります。

理容師法の名称ですが、理容師には理髪と美容、女髪結が含まれています。当時、女性の髪型は和髪から洋髪へと比重が移っていました。日中戦争から第二次世界大戦を経て、女性の洋風化が進み、服飾、メイクとともに洋髪・パーマネントが主流になっていました。

理容師法はのちに、理容師美容師法に、さらに昭和32年には理容師法と美容師法に分離されます。


また同年には「環境衛生関係営業の運営の適正化に関する法律」が公布され、生活衛生業の衛生を担保する目的から、組合内での料金や営業時間、休日などの協定が認められ、組合未加入の大手業者との分野調整なども規定されました。

これは戦後の一時期、理髪料金が統制料金下におかれたこともあり、その延長線上としての協定料金だったようです。なお統制料金は令和のいまでも浴場業で適用されています。


理容業美容業はとくに組合活動が熱心で、理容業の場合、総合調髪料金を中心にした料金協定、休日や営業時間を取り決めた営業協定などを組合の支部単位(保健所単位)で実施しました。また新規開店を防ぐために距離制限を設けることや組合への強制加入などを検討しています。距離制限は当時、薬局や酒類販売などでも行われており、突拍子とはいえない要求でした。

組合による熱心な勧誘もあり、組合員は増えていきました。


昭和32年に公布された「環境衛生関係営業の運営の適正化に関する法律」ですが、協定料金や協定営業に対し公正取引委員会が異論を唱えるようになり、昭和40年後半になると、公正自由な競争の確保による消費者保護の意識が高まり、組合による協定料金や協定営業が問題視されるようになります。

昭和51年には全閣僚と公正取引委員長で構成する消費者保護会議で、協定料金と営業協定の廃止が決まります。


いわゆる規制法として公布された「環境衛生関係営業の運営の適正化に関する法律」は、消費者保護会議の決定を受けて、昭和53年に「生活衛生関係営業の運営の適正化及び振興に関する法律」として振興法に衣替えします。改正法の要点は、小組合、営業指導センター、標準営業約款の3つです。

安心、安全などを担保することで消費者に広く標準営業約款店を利用してもらい、生衛業の振興を図ることを目的にした改正法です。


もっとも実態としては、小組合は当時、小選挙区制が取りざたされ、与党議員が選挙区ごとの小組合設置を想定して盛り込んだものです。営業指導センターは全国(中央)と47都道府県に設置するもので、衛生行政に関わる役人の天下り機関として期待されてのものです。


改正法の主目的である標準約款制度は、半世紀近く経った今でも登録店は少なく、消費者の認知度はほぼゼロです。業界の人でさえ知らない人が少なくありません。ほとんど機能していないのが実情です。


小組合も府県単位の組合で選挙への対応できるので、小組合設立の実績は皆無です。

実際に機能しているのは営業指導センターだけです。天下り機関として設けられた営業指導センターですが、民主党政権時に天下りが禁止され、いまでは天下りはできないことになり、役人にとっては残念なことになっています。


振興法になって、組合、連合会、営業指導センターに国庫補助金事業が割り当てられるによなったのは画期といえそうです。ただし「事業打合わせ」などと称して役員らが飲み食いして使ってしまう例が多く、問題視されることもありました。

これも民主党政権時に専門の委員会が設置され、補助金事業の事前審査・事後評価が行われるようなったので、税の無駄使い防ぐことになりました。ところが自民党政権が復活して、しばらくは審議会が行われていましたが、近年は開かれていません。


同業組合は、そもそも料金協定、営業協定を指導することで組合加入業者を守るために組織されたものです。自分の仕事・生活を守るために組合活動に参加し、組合事業に協力していました。当初の規制法ならそれができましたが、いまの振興法は衛生を担保するための業界振興で、個々の参加者の直接的なメリットは希薄です。


その結果、組合員は減少の一途です。美容の組合員は10万5728人(昭和60年)、理容の組合員は13万2702人(昭和62年)をピークに減少に転じ、以降減少し続けて、令和の時代には5万人を大きく割り込むまで減っています。

やはり、理容業美容業のように小規模零細事業が8割以上を占める業界では、料金協定、営業協定あっての組合といえそうです。おそらく、これからも組合員の減少、組織率の低下は続くと思われます。


理容業美容業の数は多いし、飲食業を含む生活衛生業の数は、日本の全事業所数の2割以上(20.2%)、そこに働く人は全就業者の1割以上(11.7%)を占めるなど、数の上では日本の中心産業の一角を占めているのは間違いありません。政治家は選挙対応のため生衛業を無視することはできません。

政治と業界の癒着を批判してきた民主党が政権をとったとき、生衛業への国庫補助金を事業仕分けでやり玉にあげ、廃止を決めたものが、翌年の予算で名称をほんの一部変えただけで復活していたのには驚きました。また自民党の生衛議員連盟にならって、さっそく民主党も生衛議員連盟を発足させたのも驚きでした。やはり大票田は無視できない。


加入者の減少が続く理容美容の組合ですが、店舗数、理容師・美容師は増えていきます。

理容業美容業がいい仕事だから増えるといっても、とめどなく増えるわけではありません。

理容業は平成の時代になると減少傾向が顕著になり、美容業も平成のなかごろに飽和状態に達し、減少に転じています。これは国勢調査によるデータで、厚生労働省の衛生行政報告の届け出件数は令和になっても増えていますが、実態は国勢調査のほうが近いと判断できます。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。

ヒゲを当たる

 「ヒゲを剃る」ことを「ヒゲを当たる」ともいいます。