2022-05-05

辮髪・清国人の理髪師

 幕末、安政元年(1854)に横浜が開港すると、欧米人とともに多くの清国人がやってきました。



清国は幕府と国交を結んでいないので、彼らは欧米人の使用人として来日しましたが、居留地には欧米人よりも多くの清国人が住んでいました。


清国人は、貿易商の欧米人を手助けする買弁(ばいべん)という仕事をしていました。なかには欧米人の使用人の名目で来日して、独自に貿易をした華僑も少なからずいたといいます。清国人の頭を整える清国人理髪師もやってきました。富裕な買弁や華僑には専属のおかかえ理髪師がいましたが、そうでない人は理髪師に家まで来てもらって髪を整えてもらっていました。

当時の清国人は、辮髪でした。


明治2年(1870)に「Ah Loon」という清国人の理髪店が居留地の山下町49番地にあった、という記録が残っているので、明治維新前には清国人の理髪店があった可能性が高い。

その仕事は頭周を剃り、長く残した中央の髪を編みこんで辮髪にしていたのだと思います。それ以外にも髭を剃ったり、耳を掃除していたようです。

清国人以外の客には、髭剃りと耳掃除のサービスを提供していたようで、耳掃除は日本人客に好評だったといいます。


ただ、清国人の理髪店は、同胞の客が中心だったため、店の数は少なかった。清国人の理髪店が増えたのは、清国の衰退が著しくなった明治40年ごろからです。清国は明治44年(1911)に清国は滅び、辮髪の義務(強制)は完全になくなりました。


大正2年に発刊された『大日本理髪師名鑑』をみると、居留地だった山下町には21名の名簿の記載があり、そのうち9人が清国人でした。王賢芝、阿四、方乾郎、丁源海、鮑國榲、丁端珍、發記の名前が見られます。


「横浜開港記念館」の「横浜中華街はじまり語り、なるほど話」によると、清国人理髪師は中国東部の江蘇省出身者(揚州人)が多かったといいます。それは「揚州が刃物生産の盛んな土地だったことに由来します」と理由を紹介しています。


横浜開港を機に日本にやってきたのは、中国で貿易に携わっていた欧米の商社です。その商社は揚州の上海や、広東の広州などの交易都市に多くあり、その地の清国人が欧米人とともに来日しました。


刃物に関わる仕事に理髪のほか、飲食、洋裁があり、この3職を「三把刀」といいます。外国人居留地は明治32年(1899)に廃止され、技術を持たない清国人の就業は規制されますが、「三把刀」の3職は内地雑居になっても認められています。


21世紀のいま、横浜中華街で中国人の理髪と洋裁は見かけませんが、飲食は残っています。『神奈川県の歴史散歩』(山川書店、2011年刊)によると、横浜中華街の中国料理店は約190店舗あり、そのうち広東料理100、上海22、北京19、四川8といいます。中国料理はいまでも横浜開港時に来日した清国人の出身地の影響が色濃く残っているようです。


*辮髪といっても時代によって剃りこみ部位などが異なり、写真は清朝後期のものです


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