大正2年に発刊された『大日本理髪師名鑑』をみると、外国人居留地があった横濱市山下町には清国人と思われる名前があります。
『大日本理髪師名鑑』には同町に21人の名前が記載されています。そのうち7人は清国人と思われます。3人に一人です。
王賢芝
阿四
方乾郎
丁源海
鮑國榲
丁端珍
發記
幕末、多くの外国人が横浜にやってきました。英国、仏国、オランダ、米国などの欧米人です。彼らは清国経由でやってくることが多く、清国人を召使として雇用し連れてきました。欧米人の倍ぐらいの清国人がやってきたといいます。欧米人の離日とともに帰った清国人もいましたが、残留した人も少なくなかったようです。
当時、清国は欧米列強に侵略され混乱していて、なかには亡命のようにして来日した清国人もいました。江戸時代初期の明から清に王朝が変わるときにも多くの明国人が渡来したのと同じです。
幕末の横浜は、山下町は海に突きでた砂州の上にありました。関内一帯は干潟でしたが、徐々に埋め立てられます。いまの中華街あたりは横浜新田として埋め立てられ、明治末にはすでに多くの清国人が居住していました。
そんな背景があって、山下町には清国人の理髪師が多くいたのだと思われます。
ちなみに清国人は理髪の仕事のほかに料理、テイラー、クリーニングなどの仕事で生計をたてることが多かったそうです。
ちなみに名鑑には「山下町32 芝山兼太郎」とあります。
*写真(横浜開港記念館)は、明治10年ごろに撮影された、横浜山下町のグランドホテル。右側の干潟は関東大震災後に埋め立てられ山下公園になった。左側には清国人が多く住む中華街がある。
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