2022-04-09

花簪が東京で流行ったのは明治中ごろから

 日本髪を飾る花簪は、東京では明治中ごろになって流行ったようです。



花簪にはいくつかの種類がありますが、つまみ花簪がいまも好まれています。小さな布を折り・つまみの作業を繰り返して作るつまみ細工の技法で、花弁の飾りをつくり、簪につけたのをつまみ花簪といいます。


つまみ細工は江戸後期に、宮中の女官や大名の奥女中らが「和小物」飾りとして始めた技法といいます。

このつまみ花簪、明治になって上方で流行り、その後、東京で流行ったのが『明治百話』(上、篠田鉱造)に紹介されています。


江戸後期には、女髪結が隠れて日本髪を結っていましたが、明治になって仕事として公許されると、女髪結が増え、女髪結に結ってもらう女性が増えました。それまでは芸妓や富裕層の女性などに限られていたのが、一般女性にまで広がったのです。

女髪結が結い華美になった日本髪をさらに飾り立てたのが、上方で行われていたつまみ細工の技法を活用して製作した花簪です。明治前期には上方で花簪が広く使われていたようです。


『明治百話』に登場する花簪製作の職人は上方で花簪の製造技術を習得した人物で、明治の中ごろ東京にきました。東京の髪風俗について、「花柳界はなかなか盛大であるが、花簪は流行っていない。日本髪も全盛で、束髪はボタ餅をのせたようなのを、ハイカラとしている時代」とあります。


婦人束髪会によって束髪が提唱された明治18年から数年経ったころのことと推測されます。鹿鳴館で洋装に着飾った貴婦人らが舞踏会を開いた洋装化の反動があって、日本髪が再評価された時代でした。日本髪を主流に日本髪をアレンジした束髪も若い女子に流行っていました。


上方からやってきた花簪職人は東京でも流行ると確信し、製造して売り込みます。そして大成功し、製造が間に合わずに上方から職人を招いたことなどが、苦労話と成功後の豪遊話を織り交ぜ紹介しています。


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