2022-04-12

髪結床から理髪所になっても、変わらぬ浮世床

 男性の髪文化は、江戸時代の髷から明治になって断髪へと大転換しました。断髪は文明開化の象徴の一つとして、よく取り上げられます。


一朝一夕に変わったわけではありません。

断髪令が出されたのが明治4年で、明治20年ごろになって、ようやく大半の男性が断髪姿になったといわれています。もっとも幕末にはすでに断髪した日本人はいましたし、明治後期になっても髷を結った老人がいたといいますから、風俗が移ろうのは月日がかかります。


多くの髪結床は時流にそって、西洋理髪へと転身しましたが、同じ頭髪を扱う仕事とはいえ、仕事の内容はまったく違います。髪結から西洋理髪へと仕事を変えた髪結はテンヤワンヤだったようです。

明治期になっても髪結稼業を続けていた人もいましたが、明治の中ごろには仕事がなくなりました。いま髪を結う仕事をしているのは、相撲の床山と時代劇で使うカツラのカツラ師ぐらいです。


日本人で最初に西洋理髪の店を構えたのは、小倉虎吉さんといわれています。明治元年(2年という説もあり)に横浜山下町に開業しました。小倉さんら数人が横浜港に停泊する外国船に乗り込んで、欧米の理髪師から技術を修得したといいます。


江戸・東京の髪結のなかには、先進の横浜の理髪店に出向き、ザンギリの技術を垣間見ただけで、理髪の仕事をする人もいました。また、横浜で西洋理髪を修得した理髪師を高給で迎え、理髪所に転業した髪結床もありました。

東京で西洋理髪がはじまると、その技術を店の外から見て、髪結から理髪に転身した人もいました。実際にはこのパターンが多かったと思われます。


見よう見まねで鋏を持った、速成の自称・理髪師が多かった。玉石混淆の理髪師が誕生した結果、耳を切られる客が続出したらしい。


『幕末百話』(篠田鉱造)には、そのへんのところを

「横浜仕込みの床屋へ覗きに行き、鋏と櫛を買ってはじめたが、刈り手も刈られるお客もご存知ない方だから、どんなのがよいか、ソンなのはわからない。ソレに刈り手はただ鋏をチョキチョキ音させるのが上手らしく見えるので、無闇矢鱈(むやみやたら)とチョキチョキチョキやってお客の耳をチョキと切ることがたびたびあるんです」と書き残しています。

面白おかしく表現したのだろうと思いますが、これに近い光景が見られたようです。


ちなみに、東京の横浜仕込みの床屋として同書は、呉服橋の床司(しょうじ)、銀座の原床、築地の徳次郎床、本町の川名床、海運橋の二階床を列記しています。

海運橋というのは、現在の中央区1丁目あたりで、二階床には前述の小倉虎吉さんらとともに外国船で理髪を学んだ竹原五郎吉さんが店主の加藤虎吉さんに招かれ仕事をしていました。銀座の原床は、同様に外国船で学んだ原徳之助さんの店だと思われます。呉服橋の床司は庄司ともいいます。


時代は下り、明治の理髪店(床屋)について『明治百話』では、

「町内の隠居、若い衆、口利の倶楽部で、将碁(将棋、囲碁)の決戦場」

とあり、町内住人のたまり場で、町内の相談事を決める場でもあったとしています。たまにやってくる他町の人はぞんざいに扱い、意図的に虎刈りにして帰したこともあったと書かれています。つまり江戸時代の浮世床とあまり変わらない。


変わったのは、結うから刈るになったことと道具立てです。江戸時代は、鬢盥一つあれば仕事ができたのが、明治になってからは高価な鏡が必要となり、仕事をするのに金がかかるようなったのを『明治百話』では指摘しています。鏡以外にも椅子など備品をはじめ、鋏や剃刀、明治後期にはバリカンなどの道具も揃えるようになり、仕事回りの様相は変化しました。


仕事は髪結の「和」から理髪の「洋」に変わりましたが、町内のたまり場的な存在は江戸時代のままでした。

和魂洋才という言葉がありますが、明治の理髪もこれに類するかもしれません。とはいっても和魂洋才というほど高尚なものではありませんが。


イラストは、明治時代初期に来日して風刺画を描いたジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand  Bigot)によるものです。明治16年刊行のイラストです。


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