2022-01-08

戦時下にパーマネントをかけた女性達

 昭和になって敗戦に至るまでの日本は、日中戦争から太平洋戦争へと突き進んだ時代でした。

主導したのは参謀本部など陸軍、海軍の一部軍人で、そのお先棒を担いだのが新聞や雑誌のメディアでした。それに乗せられた多くの国民は、天皇を頂点にしたお国のために熱狂して戦争を遂行したのだと思います。一億総熱狂の時代ともいえそうです。


男子は兵士として戦場に赴き、女子は銃後の守りや、男子に代わって生産活動に従事しました。全ての国民が一糸乱れぬ行動をしたと教わり、苦難の時代を乗り越えたのだと思っていました。


ところが、戦後になって美容師さんの話を聞くと、戦時中、パーマをかける女性が早朝から列をなして、朝から晩まで大忙しだったといいます。宴席でご年配の女性美容師さんからその話を聞いたときは半信半疑でした。本当だったとしても例外中の例外なのだろうと思いました。


しかし、戦時中にパーマネントで賑わった話は、年配の美容師さんにとって、普通にあった話でした。当時、すでに電力の統制を受けていて、電熱にかわり木炭でロッドを温めてパーマをかける方法でした。パーマをかける女性は配給された木炭を隠し持って、店の前に並んで、順番を待ったといいます。木炭のない女性は、余った木炭を譲り受けたり、ときには木炭を分けてもらってパーマをかけることもあったそうです。


東京の美容師さんが地方に疎開すると、パーマの先生が東京から来た、といって店に招かれ、その土地の女性にパーマをかけたといいます。また空襲のさなかに防空壕の中でパーマをかけたという話をしてくれた美容師さんもいました。防空壕の中にパーマネント機をどう持ち込んだのかはわかりません。防空壕の中で木炭を燃やすのは一酸化中毒の危険もありそうですが、パーマネントの需要は大きかったようです。


戦時体制下、女子挺身隊などが結成され、お国ために奉仕する女性がたくさんいたのは確かなのでしょうが、その一方で、自分のおしゃれにも懸命だった女性たちも少なからずいたのも事実のようです。


この時代の女性のおしゃれはパーマネントだけが突出していたわけではありません。

この時代は、それまで和風が主流だった女性のファッションが、洋風に転換した時期でもありました。髪型が断髪・パーマネントのウエーブヘアになるのとほぼ時を同じくして、服飾は洋装化し、化粧方法も古来から続く和化粧から、肌色や目元への化粧法に変わった時期です。


衣服の洋装化は、当時発行された女性向けの雑誌で盛んに洋装姿を取り上げ、徐々に広まっていきました。既製服のない時代です。洋装したい女性は仕立屋に注文できる富裕な女性は別にして自ら裁縫して仕立て上げなければなりません。洋裁学校は大正末ごろから昭和にかけて開校しました。文化裁縫学院(現・文化服装学院)や杉野ドレスメーカー・スクール(現・ドレスメーカー学院)などは、多くの女学生を集めたといいます。

洋裁技術を身に着けた女性は地方で技術の指導して洋裁の裁縫技術を広めました。お気に入りの洋服があると、型紙を購入したり、型紙を新聞紙にトレースし、服地を買ってきては洋服を仕立てました。


化粧は日本では古来より、白、黒、赤の三色を基本にした化粧法が行われていました。明治になると、お歯黒や眉を剃る風習はなくなたものの、白粉と口紅が中心でした。それが大正時代になると、肌色(当時は肉色という表現されていました)が注目され、また目の廻りの化粧も行われるようになりました。

化粧の変化は、昭和になって日本の化学工業の発展が背景にがあります。昭和10年ごろまでは毒性が指摘されてた鉛製の白粉が使われていましたが、鉛製にかわる粧材が開発され、ようやく鉛白粉は排除されたのも化学工業が発展したからです。


戦時下は贅沢品の高級化粧品の製造販売は規制されましたが、一般化粧品の販売は継続され、生産量、生産額は戦時下にもかかわらず増えたのが、化学工業の統計データからわかります。戦時下にもかかわらず西洋風の化粧をする女性が増えたからです。


当時は、無声映画からトーキー映画への転換期でしたが、映画に登場する女優はアイラインを濃く引き、濃い目の口紅をしていました。濃い目の化粧した理由は、当時の映画は解像度が低く、濃い化粧をしないとのっぺりした顔になってしまったからです。その化粧法が一般女性に広まったといいます。


女性の洋装化には大正時代のモダンガールの影響がある、といわれてます。

モダンガールは、西洋の女性の服飾をまねたものですが、この時期は欧州の女性のファッションが大きく変わった時期でもあります。欧州の女性のファッションが変わった背景には第一次世界大戦があります。徴兵された男性に代わって、若い女性は工場などで生産活動に動員され、仕事がしやすい髪型や服装をするようになり、ロングヘア中心から断髪の短髪へ、動きやすい服装へと変わりました。機能性が求められる服装をしながら、そのなかに新たなおしゃれを楽しんだのだと思います。


それらの西洋の女性の新しいスタイルがモダンガールとして大正時代末に日本に紹介されたのです。このモダンガールが一気に流行したかというと、そんなことはなく、昭和の初めころまでは洋装する女性は稀でした。洋装姿の女性を周囲は奇異な目でみていました。

それが、昭和10年代になると洋装する女性が増え、洋裁、洋化粧、洋髪が広まっていったのです。


洋髪は断髪とパーマネントでつくりますが、昭和10年ごろに国産のパーマネント機が開発されて安価になって普及しました。パーマネント機は大正の末には欧米の機械が輸入され、その機械を導入する美容院はありましたが、家が買えるくらいの高価格で限られた美容院しか購入できませんでした。


昭和10年ごろに安価な国産機が開発・販売されるようになり、パーマネント機が急速に普及しました。パーマネント代も下がり、一般の女性でもかけられるようになり、昭和12,3年ごろから一気に拡大しました。それまでのパーマネントは富裕女性や女優らごく一部の限られた人しかかけませんでしたが、パーマネント機が普及し料金が下がったことで、断髪、パーマヘアは身近なおしゃれになりました。


しかし時は、日中戦争まっただ中の戦時体制下です。贅沢な生活は規制されました。パーマネントも当時のメディアや戦時下の町内会などの組織から非難の対象になりました。そんななかでも、パーマネントの技術と営業を続けたい業界団体は、軍にゼロ戦を献納したり、また地味なパーマネントヘアを提唱して、存続をはかりました。業界団体の役員らは街角に立って派手なパーマへアをしている女性に注意したりして、贅沢を戒め国民的な運動に協力する姿勢を示しました。


国も法律や勅令でパーマネントを禁止したわけではありません。国民の自発的な運動であり、それを先導したのが当時のメディアでした。

「贅沢は敵だ」「パーマネントはやめましょう」などという標語が掲げられ、美容院の前には愛国心あふれる子供たち立ち並び、「パーマネントはやめましょう」と囃し立てました。もっとも戦後、「うちの店の前で先頭に立って囃し立てていた子は、髪結の子だよ」と、子供から教えられたという美容師さんがいました。


戦中から終戦期まではちょうど日本髪や束髪などの和髪から、断髪、パーマネントの洋髪へと変わる過渡期で、洋髪の流行に危機感を抱いていた髪結さんは少なくなかったようです。そして多くの髪結さんは断髪技術、パーマネント技術を習得して業態の変換に対応しました。


女性の洋装化の背景には、日中戦争から太平洋戦争への戦時体制があります。徴兵された男性に代わって、生産活動に従業し、また戦時訓練をするには、和装よりも洋装のほうが適しています。戦時下、女性が着用するのにふさわしい服装が提案されましたが、そのなかに洋装的な服装もありましたし、モンペやアッパッパーといわれる簡易的な洋装も取り入れられました。これらの流れがあって、女性の洋装化、洋服、洋化粧、洋髪は浸透していったのでした。


後日談ですが、パーマネント機は金属部分が多くあり、本来なら兵器を作るために供出する運命にありましたが、どういうわけか供出を免れたパーマネント機は少なくなかったようです。また戦後になって供出したはずのパーマネント機が大量に出回ったという話もあり、当時の管理体制はいい加減だったのかもしれません。


そして戦後。

洋服は、個人個人が裁縫する自家裁縫から、吊るしといわれる既製服の時代へと変わり、洋裁を学ぶ女性は激減しました。化粧は、カラー映画やカラー雑誌の普及で、日本古来の白・黒・赤を基本にした和化粧から色彩豊かな洋化粧に変わりました。また目元や口元の化粧方法も時代に応じて変化し、化粧法も進化しています。

洋髪のパーマネントは、ホウ砂を使った加熱式から、チオグリコール酸などを原料にしたコールドパーマネントになり、利便性が格段に向上しました。そしてカット技法もレーザーによるテーパリング中心から、ヴィダル・サスーンの鋏によりブラントカット中心のカット技法へと進化しました。


過去は欧米から学び、日本人向けにアレンジして取り入れていたファッションですが、令和のいまは服飾、化粧、髪型などファッションを世界に向けて発信するまでになった日本のファッション産業です。


ところでいま、戦時中の動向を後世に残す活動が展開され、NHKでも「#あちこちのすずさん」のように戦時中の記憶を広く募集しています。民放でも同様の企画を行っています。

なかには当然、銃後を守る女性達の記録もあるでしょう。おそらく、記録されて後世の残るのは、愛国心あふれる女性達が苦労した話が大半で、自分のおしゃれに懸命だった女性がいたことは、忘れ去られてしまうのでしょう。


木炭を隠し持って美容院を訪れた話を初めて聞いたとき覚えた違和感ですが、いま愛国心一色の記録を目にすると逆に違和感を覚えてしまいます。


戦時中、おしゃれに懸命だった女性は少なくなかったはずです。そんな記録がスルーされそうです。徴兵された兵隊のなかには脱走した兵隊もいましたが、数は少数です。例外中の例外で個人の資質に帰する問題といえますが、物資が乏しいなか、おしゃれにいそしんだ女性は相当数いて、一つの社会的な潮流となっていたのも事実です。

おしゃれをした女性にも愛国心はあったと思いますが、おしゃれ心も忘れませんでした。そんなおしゃれに一途な女性達の記録は歴史には残らないのでしょう。


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