2021-11-15

維新後、閑古鳥が鳴いた江戸・東京の女髪結

 江戸の女髪結は、江戸中期に上方歌舞伎の女形付きかつら師にその技を伝授されたことにはじまる、とされています。遊女や茶屋女を相手に髪を結っていましたが、江戸後期には町人の妻女らの髪も結うようになりました。女性は自ら髪を結うのが習いでしたので、すべての女性が女髪結に結ってもらったわけではありませんが、なかには不器用で、思うように結えない女性もいたようです。

また江戸後期になると、髪結の専門職である女髪結が粋でおしゃれな髪を結うようになり、高度な技を使わないと結えない髪型が次々と登場します。自ら結った髪とプロが結った髪とでは歴然とした差があったのも女髪結が流行る一因でした。


江戸では女髪結は禁じられた職業でした。寛政の改革では他業への転業指導、天保の改革では捕追されるなど厳しい取り締まりを受けます。いっときはなりを潜めるのですが、ほとぼりが覚めると復活し、腕のいい女髪結は引張りダコだったったといいます。


明治維新で女髪結は職業として認められます。ところが維新後、江戸の女髪結は閑古鳥が鳴く状態だったといいます。理由は、国から公許された職業になり、女髪結が増えたのと、客が減ったからです。


明治維新で武家屋敷に住んでいた武士やその家族は地元に帰りました。江戸の人口の約半数は武家だったといいます。一部は残りましたが大半の武家は奥方ともども地元に帰ってしまいました。


武家の女性は自ら結うのが習いでしたが、江戸後期には女髪結に任せていた奥方が少なくありませんでした。


江戸の町人地には「女髪結、立ち入るべからず」の立札が出されていましたが、武家町にも同様の立札があったといいます。裏を返せば女髪結が武家屋敷の奥向きに出入りしていた証左です。女髪結にとって武家の女性も得意先でした。


武家に代わって、長州や薩摩など維新を成し遂げた藩の武士や京から公家衆らが、武家地に移り住みました。しかし、下級武士や公家の妻女はセルフで済ませていました。女髪結に結ってもらう風習はありませんでした。


武家が江戸を去ったことで、武家相手の商売をしていた江戸の町人も仕事が減り、経済的に余裕のなくなった町人の奥方も女髪結に頼めなくなった人もいました。

女髪結が増え、客が減れば、当然女髪結の客は減ります。


もっとも武家が江戸を去り地元に帰ったことで、帰郷した地元で女髪結が仕事として興ったことが推測されます。女髪結は江戸後期には農村部でも仕事をしていましたが、繁盛していたのは、江戸や大阪、京都、金沢、名古屋といった大きな町や規模の大きな遊郭がある町にでした。藩主が奥方ともども帰ったことで、女髪結が各地に広まった可能性はあります。


ところで、幕末から明治維新にかけて、江戸に女髪結が何人いたかは正確にはわかっていません。時代は少し下りますが、明治12年には約5千人の女髪結がいました(東京府勧業課回顧録)。同年の理髪店は2397店(東京府統計局)ありました。理髪は店舗を構えていましたが、女髪結の多くは店を構えずに出髪(出張)で仕事をしていました。店舗数と人数の違いが結果に現れています。


この年、東京の女髪結は東京府に組合結成と女髪結の取締りの願い書を出しています。

組合を結成するとともに、組合に入らない女髪結を取り締まってほしい、という内容です。組合による営業規制、業務独占の運動は、以後も継続して行われることになります。


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