2021-07-27

北海道・北東北の縄文遺跡群と理美容

 北海道・北東北の縄文遺跡群が2021年7月27日にユネスコ文化遺産に登録されました。この遺跡は、狩猟・採集をしていながら定住生活していることが評価されたことも登録の決め手になったといいます。

狩猟採集生活では、移動しながら生活するのが普通で、定住しているのは極めて珍しい。定住生活は移動する時間がいらず、時間的な余裕が生まれます。そこに文化が生まれる可能性があるといいます。また移動生活では、体力のない年寄りは移動についていけずに取り残されてしまうことが多く、それまで生きてきた経験などが伝承されにくい、ともいわれてます。


遺跡群は約1万5千年から2400年前の4道県で構成されていますが、青森県の二ツ森貝塚から、鹿骨製の刻歯縦(竪)櫛が出土しています。今回のユネスコ登録遺跡ではありませんが、二ツ森貝塚より古いといわれる福井県鳥浜貝塚からは木製の赤漆塗刻歯縦櫛が出土しています。


「竪」櫛と表記するのは考古学者の文献でみられ、考古学では竪が一般的なのかもしれませんが、ここでは縦櫛と表記します。また櫛の製作方法について、考古学では刻歯式、結歯式に分類しています。時代的には刻歯式のほうが古い。


二ツ森貝塚は紀元前7千年~同5千年の「定住段階発展期」の時代といいます。縄文人は黒曜石で木や骨を刻み削って櫛を作っていました。しかも、漆を使って加工する技術を持っていました。


もう少し時代が下ると、結歯式の櫛を制作しています。結歯式というのは細い木の枝や竹を櫛の胴となる木片に漆と木粉をまぜて固定して作ります。このころになると、縦櫛ではなく横櫛も製作されます。


これらの櫛は祭祀用とする説が有力らしいですが、貴人らも使用していたかもしれません。

縄文人は規模の大小はありますが、数十人から数百人ていどが集まり集落をつくり、定住してといいます。集団で生活すると、社会性が生まれ、上下関係が発生すると考えられます。


理美容の起源は、上下関係が発生し、支配者や特権階級の人に近侍する人の中で器用な人が支配者の髪を整えたことにはじまります。理美容に限らず、飲食や衣服なども同様です。

そう考えると、日本の縄文時代には理美容が行われていた可能性はありそうです。


そのことを裏付ける資料はありませんが、定住して集団生活をしていたことを考えると、その可能性は否定できません。

世界的には古バビロニア王朝(紀元前1830年-紀元前1530年)で、王侯に近侍する貴人が王の髪を整えていたという記録がありますが、それよりも古い時代の日本列島で、もしかしたら同じようなことが行われていたかもしれません。

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