2021-06-28

上総出が多かった江戸の髪結

 上総と江戸の髪結の関係は浅からぬものがあります。江戸川柳にその関係を前提にした句がいくつかあります。

江戸川柳の研究家・渡辺信一郎さんの『江戸の生業事典』(東京堂出版)には髪結、髪結床にまつわる川柳が192句ほど掲載されてますが、その中から上総にまつわる句を紹介します。


一睡のうちに江戸に着き (二七12)


髪結を一艘積んで帆を掛ける (明六満1)


生臭い船で髪結渡海する (明八信3)


江戸と上総は、東京湾を挟んで意外と近い。しかも内海なので穏やかです。乗船してうたた寝をしているうちに着く距離です。普段は漁をしている漁船を一艘仕立てて何人かの髪結を乗せて江戸に向かったのがわかります。


江戸川の縁に髪結二三人 (安八智6)


江戸に着いた髪結が二三人たむろして、これから廻り髪結の仕事に向かう情景を詠んだ句です。江戸には木更津河岸という上総からの専用の河岸がありましたが、それとは別の河岸に着岸したのかもしれません。


上総は昼間 越前は夜廻り (三五24)


昼上総 夜は越前廻るなり (安四鶴4)


この二句は同じ内容の句です。上総から来た髪結は、廻り髪結として昼間江戸の町を歩きます。越前出身者は木戸番、自身番などの番太郎が多く、こちらは夜回りが仕事でした。出身地による職業の特徴をあらわした句といえます。番太郎といえば越前、髪結といえば上総が多くいたのが川柳から知ることができます。


上総から江戸に出稼ぎにきていた髪結は廻り髪結をして稼いで、おそらく数日は安宿に泊って仕事をし、ある程度稼ぐと上総に帰ったのだと思います。句が読まれた時代は、一町一株の髪結株、つまり一町に一軒の内床の決まりでしたが、上総の髪結は得意先を見つけて、鬢盥を持って家々を廻っていたようです。


上総の髪結といえば、明治6年初演の『髪結新三』(かみゆいしんざ)が歌舞伎の世界で有名で、いまでも上演される演目だそうです。二代目河竹新七(河竹黙阿弥)の作で、正式名は『梅雨小袖昔八丈』(つゆこそでむかしはちじょう)といいます。

劇中、新三が「上総無宿の入れ墨新三さ」と啖呵をきるシーンがあり、劇で新三は小悪党として描かれています。


この演目は、享保のころに実際にあった「白子屋事件」(「大岡仁政録」『白子屋お熊の件』)からとったとされています。この事件で髪結は登場していませんが、『髪結新三』に負けず劣らず興味深い内容です。


「白子屋事件」からとった『髪結新三』ですが、事件からおよそ150年経っています。150年前の風俗は正確に描写するのは難しい。おそらく文化文政期から天保のころの江戸に置き換えて、創作したのだと思われます。そのころは髪結といえば上総出というのが通り相場になっていたので、「上総無宿の入れ墨新三さ」と新三に言わせたのでしょう。


「髪結の先祖は里見家の浪人」という説があります。里見家は戦国時代は安房を治め、江戸時代初期の1614年に改易されました。改易で浪人となった武士が月代剃り、髷を結う髪結になったという説です。江戸の髪結に関する起源の話ですが、諸説あり、のうちの一つの説にすぎません。


また、上総が転じて髪結になったという髪結起源説もあります。髪結をカミーイ、カミイと発音していたといわれ、発音が少し似通っていることから生まれた説でしょうが、これも諸説ありの一説というほかありません。


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