2024-02-04

神戸・走水町の「乍恐口上」

 江戸時代は自由に営業できない規制社会でした。それが封建制度の一つのあらわれかもしれません。

髪結床を新たに開くには御上の許しが必要でした。


走水町の年寄二人が役所に出した「乍恐口上」(*)という幕末の書面が残されています。「髪結床を二ヵ所増やしてほしい」などと要望しています。

書面は、開港後、多くの外国人が訪れ、諸商人など人出が増えたため、それに対応するために、髪結床のほか湯屋、芝居小屋、見世もの小屋などの増設を認めてほしいと願い出ています。


走水町といえば横須賀の走水を想起する人もいると思いますが、いまの神戸市元町にあった町のようです。走水町のほかいくつかの町が合併して元町になったといいます。走水町は走水神社(はしうどじんじゃ)のあるあたりかもしれません。(横須賀市にも走水神社(はしりみずじんじゃ)があります)


神戸に関しては、所領は複雑ですが、幕末、神戸が開港した当時はすでに幕領だったと思われます。


幕府の所管となると、江戸の町と同じような町内自治が行われていた可能性が高い。町年寄・町名主・家主による自治で、髪結床、湯屋は一町一株が原則です。芝居小屋なども町年寄が管理していたようです。


一町一株の床屋株ですが、株を所有していれば同じ町内であれば複数の髪結床を開くことができました。これは江戸府中の話ですが、幕領の走水町も同様だったはずです。


株を所有しても町内に髪結床を開くには御上の許しが必要だったのかもしれません。もしくは町域が広がり、新たな町が二町できて、それにともない床屋株の発行を願い出たのかもしれません。


この書状が出されたのは、慶応4年3月のことで、半年後には明治になります。明治維新で社会は変容しますが、床屋株は維新後もしばらくは存在していました。


規制社会の江戸時代でしたが、世の中は幕府の規制通りにはなっていません。髪結床の一町一株制度も、床屋株のない町もあったし、闇営業、忍髪結が横行していていました。鑑札を収めた正規の髪結は再三、御上に忍髪結の取り締まりを申し入れています。それだけ忍髪結の闇営業が多かったのだと思われます


(*)「乍恐口上」(所蔵/神戸大学附属図書館)

走水町年寄

長四郎

與兵衛


乍恐口上 走水町 一当表御開港ニ付外国人并ニ所々より諸商人多分入込有之候ニ付当所是迄之仕来ニ而者引たり不申候間増職且亦追々繁栄ニ相成候ニ付当地為潤ひ之左ニ御願奉申上候 一髪結床 二ヶ所 一湯屋 二ヶ所 一定芝居小家 一ヶ所 一小見世もの小家 二ヶ所 右之通御聞済御成被下候ハヽ難有仕合奉存候以上 慶応四年辰三月 走水町年寄 長四郎 同 與兵衛 御役所


*「乍恐口上」が二人の町年寄が連名なのは、月番制で交代で町年寄役を担っていたからだと思われます。

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