2023-11-22

三河奴の髷

 明治の文筆家、塚原渋柿園の講演録である『幕末の江戸風俗』(岩波文庫)によると、徳川幕府の武士は幕末は講武所風の髷が流行ったことが再三記されていますが、開幕当初は三河奴の髷が流行ったと言っています。

講武所風は月代を指2本ほどの細さでしたが、三河奴の髷はその反対に、いわゆる大月代だったことから対比して紹介しています。大月代は江戸前期に江戸町を騒がせた旗本奴や町奴が好んでしたとされています。


町奴の幡随院長兵衛の子分で侠客の唐犬権兵衛がした大月代は、額を大きくとっているので、唐犬額の別名があります。側頭部の鬢は、下半分を残しほぼ水平に月代しています。髷も小ぶりです。

これよりもっと月代を大きくした撥鬢もあります。鬢の形が三味線などの撥に似ているからこの名称がついたようです。


大月代は江戸時代初期、まだ戦国の威風が残っている時代、男伊達を示すものとして、武闘派に好まれた頭髪風俗です。単なる男伊達による風俗かもしれませんが、『幕末の江戸風俗』を編集した菊池眞一さんは、『今昔くらべ』(岡三慶、明治9年)を引用して、三河奴の髷を次のように解説しています。


まず三河奴の月代については、「襟首あたりにわずかに毛を残すのみ」とありますから、撥鬢の上をいく大月代だったかもしれません。月代というより坊主頭に近い。

大月代にする理由については、打ち取られて首実検をされるとき、普通ならば髪を掴まれて敵将の正面を向くことになるが、大月代なら髪を掴まれても顔は下を向き、背く。つまり死んだ後も敵将を憎む、という理由をあげています。


単なる男伊達だけではなく、戦国武士の心意気の現れだったのかもしれません。


ちなみに『幕末の江戸風俗』は塚原渋柿園の話も参考になりますが、菊池眞一さんの注釈も必読です。


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